水牛的読書日記 2022年2月

アサノタカオ

2月某日 いまからもう20年以上前のこと。奄美、沖縄で人びとの話を聞きながら旅していると、行く先々でお茶うけとして「黒糖」を出された。ゆっくり味わうことを知らなかった若く野蛮な自分は、ただすすめられるままにガリガリかじって、甘みで疲れを癒したのだった(お世話になったみなさま、ごちそうさまでした)。

先日、Sさんから届いたいただきものの箱を開けると、なんとそこにはなつかしい黒糖が!  沖縄県黒砂糖協同組合の商品「八島黒糖セット」。うれしい。仕事をしながら日替わりで8つの島産の黒糖を食しているのだが、島ごとに味がこれほど異なるとは知らなかった。波照間島から島巡りするように、繊細な風味のちがいを楽しんでいる。与那国島産と多良間島産の黒糖は、食べ比べるとほとんど別物。そしてどちらもおいしい。西表島産の黒糖はいちばんバランスがよくて、さわやかなお菓子感があった。

2月某日 ふと、本を読みたいと思った。きのうもきょうもさんざん読んでいるのに。仕事で作ってもいるのに。ご飯を食べながらご飯を食べたいなんて思わない。でも、本を読みたいと思った。これは、神の啓示的なものだろうか。自分でもよくわからない、まったく得体の知れない欲望だ。

2月某日 本も読むけど、波も読むし雲も読む。世界は読むもので満ちていて、湧き出るページに終わりはない。近所の海辺を散歩し、立ち寄ったカフェで、ふとおもいついたそんなことばをノートに書きつける。本がない世界もいい、本がある世界もいい。2つの世界を行き来しながら、読むことに取り憑かれているのはなぜだろう。

MOMENT JOON『日本移民日記』(岩波書店)を読了。本の最後に置かれたエッセイ「僕らの孤独の住所は日本」に感銘を受けた。かつて「見えない町」とされた在日の土地で夢をもちあぐねた老詩人・金時鐘。その詩のことばを裏打ちする深いさびしさが、韓国で生まれ日本語を生きる若きラッパーである著者の孤独に時を隔てて合流し、声がよみがえる。本のページを閉じて、MOMENT JOONの曲「TENO HIRA」を聴きながら、思考や感情がぐらぐらとゆさぶられているのをじっくりと確かめている。いつかきちんとした感想を書きたい。

2月某日 《僕は自分の体に残っている傷跡の起源を知らない》。自分としてはめずらしく、本に巻かれた帯文に惹かれて読んでみたいと思った。韓国の作家ソン・ホンギュの長編小説『イスラーム精肉店』(橋本智保訳、新泉社)。韓国文学の中ではこれまであまり読んだことのない多文化的・多民族的な世界を背景とした物語で興味深い。この小説の主な登場人物のひとりが、「ハサンおじさん」。朝鮮戦争後の韓国ソウルの路地で精肉店を営むトルコ人の退役軍人という設定だ。そういえば昔読んだ小林勝の小説「フォード・一九二七年」にも、舞台は植民地時代の朝鮮であるが、トルコ人の父娘が登場することを思い出した。

2月某日 砂浜に立ち尽くし、まだ冬の寒さを感じる吹く風に全身をさらしていると、「自分」がかたどられるのを感じる。かたどられた自分は空っぽで、ただ波の音で満たされてゆく。それがたまらなく気持ちいい。

2月某日 韓国の作家ハン・ガンのエッセイ集『そっと 静かに』(古川綾子訳、クオン)はいつもデスクに置いてある愛読書。音楽について、音について、沈黙について書かれている。この本に出てくる車椅子の歌手、カン・ウォンレ。所属するダンスデュオCLONの動画をいろいろ視聴した。韓国芸能界のいわばレジェンドなのだろう。CLONの曲「First Love」をK-POPグループのNCT127がカバーしているのをYoutubeで視聴した。

最近、読書中や仕事中にBGMとし流しているK-POPとしては、MONSTA X→EXO→NCTがお気に入りのルーティン。今日はひさしぶりに終日、BTSを。安定の美しさ。

2月某日 インタビューという方法について考えている。学生時代に人類学や民俗学の先達による聞き書きやオーラルヒストリーの仕事に学び、調査の経験も積んだ。でもいまは「いいだけのものじゃないよ」と疑いの目を向けている。インタビューという方法には、根本的に暴力性が伴う。相手の声を自分の文字に奪い取るのだから。

ブラジルの日系コミュニティ、また沖縄系・奄美系の移民社会で何百人もの人びとを相手にインタビューをした。フィールドワークなどと言えば聞こえはよいが、やっていることは警察の尋問と変わらない。だから、ずいぶん「痛い」思いをした。自分が痛い目にあった以上に、取り返しのつかない形で相手を深く傷つけたこともあった。その体験について書いたエッセイを軸に次の随筆集をまとめる。

2月某日 第8回日本翻訳対象の選考対象作品が発表された。毎年楽しみにしている賞。大賞を選ぶことにももちろん意義はあるだろうけど、自分としてはこれだけたくさんの魅力的な海外文学があると知ることができるのがうれしい。読んだ本、読みたい本、知らなかった本。発見がある。「ブラジル最大の刑務所における囚人たちの生態」を描いたドウラジオ・ヴァレーラ『カランヂル駅』。こんな本が日本語に訳されていたとは(伊藤秋仁訳、春風社)。季節の巡りの中で、心が海外文学に向かう時間。

2月某日 早田リツ子さんのノンフィクション『第一藝文社をさがして』(夏葉社)。本書の主人公で、明治生まれの出版人・中塚道祐周辺の人物群像のなかで興味をひかれたのが、厚木たかという女性記録映像作家。『或る保姆の記録』などで脚本を担当。厚木たかの回想録があるようなので、読んでみたい。

『第一藝文社をさがして』はほんとうに素晴らしい本で、すでになんども読み返している。装丁には落ち着いた美しさがあり、本文のデザインについても同じことが言える。章と章のあいだにはゆったりとした余白のページがさりげなくはさまれ、はやくはやくと読み進めたい気持ちをやさしく鎮めてくれるのだ。書物にも社会にも、こうした余裕、余白がもっと必要なのではないだろうか。

2月某日 神奈川・大船のポルベニールブックストアへ。扉を開くと、入り口近くに青い本、ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』が平積みされているのを見つけて、うれしくなった。

2月某日 雑誌『世界』3月号の特集2「維新の政治 「改革」の幻惑」。松本創さんの寄稿「維新を勝たせる心理と論理」を読む。大阪維新の会の府政報告会、大阪府と読売新聞「包括連携」、MBS「維新広報番組」を取材しつつ、政治とメディアの問題を検証。会幹事長で大阪府議会議員の横山英幸氏の冷静な発言を引き出しているのが意義深い。「行政サービスは職場や団体ではなく、個人に手渡す」という横山氏の発言を読んでなるほどと思った。「維新」と言うと代表の吉村大阪府知事のテレビ出演やSNSでの関係者の発言の炎上などメディア戦略が目立ち、また批判もされるが、件の「維新広報番組」の視聴率は局関係者によると「まあまあ」とのこと。

松本創さんが2015年に発表したノンフィクション『誰が「橋下徹」をつくったか』(140B)は、まさに「維新」をめぐる政治とメディアの問題を取材し、批判的に論じた本だった。今回の記事「維新を勝たせる心理と論理」では、その視点を保持しつつ、単にマスコミの問題を指摘するだけでは説明のつかない「維新」周辺の複雑な現実に迫る。横山発言にみられるように、「多種多様な無党派の人びと」を対象にした「『個人化』時代の政党」であること、しかも大阪府市での10年間の政策実績の着実な積み重ねが「維新」の強さを裏打ちしているという松本さんの論評に深く納得した。

「維新」の強さを裏打ちしているものが「吉村人気」のようなメディア戦略を活用した一過性の流行現象のようなものだけではないとしたら、このポピュリズムはしぶといということだ。批判的な立場の自分としては心底うんざりしつつ、言論という仕事において何ができるのか考えさせられた。

2月某日 文芸誌『すばる』3月号、くぼたのぞみさん+斎藤真理子さんの往復書簡「曇る眼鏡を拭きながら」を読む(タイトルがすごくいい)。第2信は斎藤さんの回。藤本和子『塩を食う女たち』(岩波現代文庫より再刊)をめぐるエピソード、1冊の本がこれほどまでひとりの人間の「生きる」を支えることがあるのか、と深く感じ入った。

第1信のくぼたさんの回を逃してしまったので、バックナンバーを探して読もう。『すばる』3月号に、斎藤さんは永井みみ『ミシンと金魚』の書評も寄稿している。「コロナ時代に花開く死への想像力」。書評では「介護」や「認知症」ということばもみられる。この小説も読んでみたいと思った。

2月某日 ロシアによるウクライナ侵攻という信じ難いことが起こり、戦争をめぐるオンタイムの報道に接してことばを失っている。こんなときに文学の本を読み、文学について語り、文学の本を編集する、そんなことをしている場合だろうか、と迷う気持ちが生じた。でもタガの外れた世の中で正気を保ち、世界や他者の痛みを想像するためにも、文学の読書は、とくに海外文学の読書は大切だと思い直した。

深夜、重い気持ちの中でふと手を伸ばしたのは、やはり、ここのところ何度もページを開いている一冊の韓国文学の本だった。ソン・ホンギュ『イスラーム精肉店』。「戦争」が隠されたテーマだが、現実の戦闘場面が描かれるわけではない。戦後の日々、社会の日の当たらない場所でなお戦争の苦しみを生き、心身に受けた裂傷によってつながりあう流れ者たちの姿、かれらのさびしさの奥で震えるやさしさを描いたすばらしい小説だ。この本のあとがきに、日本の読者に向けた著者のメッセージが収録されていて、橋本智保さんが訳してくださっている。

《嫌悪と差別にあふれたこんな時代だからこそ、私たちは他人の痛みに目を背けてはいけないと思います。……人と人をつなぐのは血ではなく、他人の痛みを想像する共感能力です。いまこそ人間とはなにかを考えてみるときではないでしょうか》

今日という日にこそ、誰かと共有したいことばだとつよく思った。