クセナキスを思い出す。音楽についても、その他についても、「よい・わるい」という判断はしなかった。「おもしろい」かどうか、それは「新しい」という1950年代の「前衛」の判断ではなく、分析や、要素還元と再構成の技術ともちがっていた。確率で音を選ぶ方法も、特にポアソン分布は、見慣れた環境、無意識に身に付いた動きから離れて、響きに触れるための一つの手がかりだったのかもしれない。どんな確率関数にも顔がある、という意味は、使った方法が残ると、それはもうそれ以上の発見を誘う力は無くなって、スタイルになってしまう、と言えばよいのか。科学ではくりかえし応用されて確実になってゆく仮説も、芸術ではくり返すたびに色褪せてゆく。
1963年から数年の間、当時の西ベルリンやパリで、クセナキスのピアニストであり、傍にいて、かれが確率の次に古代ギリシャのテトラコルド理論から「篩の理論」という音程組織論を考えていた頃、アリストクセノスの同じ本を読み、それが音程を音色のように感じるきっかけになったのかもしれない、というのは、後からの思いつきなのだろう。
クセナキスはその頃は亡命者で、ギリシャには帰れなかった。日本に帰ることと古代日本文化を学ぶことを勧められていたが、実際に日本に帰ったのは1972年で、日本の伝統音楽に興味を持ったのは1990年頃だった。今はそこからも、いつの間にか遠ざかっているようだ。
1970年代の半ば辺に、流行にはかなり遅れて、ミニマリズムを試してみたが、ズレと反復を積み重ねていくよりは、ズレから変化して不安定になっていく方がおもしろいと思っていた、というのも後付けの記憶だろうか。
作曲では生活できないからピアノを弾き、新しい音楽を弾くだけでは仕事もあまりないから、ひとがあまり弾かないクラシック、バッハなども演奏し、ソロでなければ即興演奏もして、なんとか暮らしてきたが、習った技術ではないからピアノを弾くのには限界がある。「多く、速く、強く」ではない技術、「弱く、ためらい、よろめく」技術、変化と不安定な足取り、揃わず、合わず、数え・測らない「技術」、これはいったい技術と言えるのか。楽譜が進化してきた方向と逆に、普通に使われる記号を、説明なしにあいまいな拡がりを持たせる使い方、ディジタルでなくアナログ、ゆらぎとムラ、よりどころの無さ、あてのない、はてしない、さまよい、途切れる線が重なり… 発音に意図を込めるより、意図や意味から解放された自由な空間を、余韻と間に垣間見られるように。
世界は暗く、衰えた圧力が抵抗を呼び起こす。まだことばやイメージにならない微かな振動が、あちこちから伝わってくる。あせらず待つ時、聴き、感じる時。