きのこ雲

イリナ・グリゴレ

車の助手席に子供が食べ捨てたお菓子の袋、幼稚園から持って帰って作ったことも忘れている工作などとともに寺山修司の『家出のすすめ』とヴァージニア・ウルフの英語版『A Room of One’s Own and Three Guineas』というエッセイ集を私が置いた。長女と次女の送り迎えの時間がバラバラで、ズレがあって、駐車場のための競争もあって、自分が車で時間をたくさん過ごしている日々が続いているなか、車の中でも本を持ち出すしかないという決断に至った。同時に本を5冊以上読んでいる癖がある私が、なぜ車の中で読むにはこの2冊にしたのか自分でもわからないが、寺山の1ページ目の「他人の母親を盗みなさい」と、ウルフの5ページ目の「有名な図書館が女性に呪われているなんて、有名な図書館には全く無関心」という文章を読むと、1日分の燃料をもらった気がする。何が嘘で何が本物か分からない世の中であるが、いつもこうして本で確認できることがある。ウルフの時代では女性は図書館に入るために特別な招待が必要だったという。

秋の朝の光に飛んでいる賑やかな「結婚トンボ」の方に目線がとられる。結婚トンボというのだ。今年は初めて知った。トンボまで結婚させられるなんて少し悲しい。トンボもわかってないのに。やっぱり、人間とは勝手だ。何日か前に稲刈りのお手伝いに行った。娘と泥んこまみれになってお米はどうやって作られるのか身体で感じた。自然乾燥のお米が一番美味しいとよくわかった。私も棒に束をかけて、できる限りお手伝いした。足が土に入って、手が稲を触って、頭に太陽が当たっただけで身体の奥から大きな喜びを感じた。田んぼの中で、娘が頭のテッペンから足の指先まで泥だけになって大騒ぎして笑う。そして人間だけではない。何千ものトンボ、バッタ、カエル、蝶々、鳥などがいる。トンボもバッタも2匹でくっついていることが多い。でも結婚なんてしていない、光の中でただ一緒になって命の踊りを続けている。地球というところはこんなところだ。

稲の束を運んでいる間に、泥の中から体の半分がない蛙が飛んできた。黒い泥に赤い血が混ざる。体の半分がないにもかかわらず普通に動いている。慣れているように。多分、稲刈りの機械が当たった。でも蛙も自分も悲しくない。頭の中で「新しい足がきっと生える」と思う自分がいるが、血と泥が混ざっているイメージが脳に残る。稲刈り機械は男が操作している。田植えの時もそうだったが、自分も体験してみたくなる。機械は大きくないのに、エンジンがついているせいですごい力で引っ張られる。田んぼの泥の中で真っ直ぐ歩けないぐらい引っ張られる。自分の身体の限界を感じる。機械に勝てない。重いし強い。2回往復して男の人に任せる。

農作業の大変さは子供の時から知っている。身体が疲れすぎて、何も考えられなくなることが起きる。よく眠れるけど。でもいくら働いても足りない。草はまた伸びるし、虫が実を食べるし、水をかけないと日差しの下で全部枯れる。だから農薬と機械などを人が作りたくなる。蛙は何匹でも犠牲にしても。でも本当に蛙の命まで犠牲して食べていいのかと思う時がある。人間とはきっと必要以上に食べている。育った村には田舎に憧れて都会から移住してきた家族たちが何軒もいたけど、何年か経ってから都会に戻る。大変だから。森のきのこを食べた家族が毒キノコだと知らないまま、大変な目にあったこともあるし、村で馴染めない。昔からいる人たちがその地の精霊に慣れているからなかなか他所からの身を受け入れるのは難しい。

その土地を守るために村の人同士で結婚して、一生その地で過ごす人たちがいるけれど、村の中では近親相姦、レイプがよく起きる。育った村ではこのような話が子供の自分の耳にもよく届いていた。特に村の噂で印象に残るのは、一人ぐらしのお婆ちゃんたちをレイプする男だった。子供同士の包丁刺しなど、親と義理の息子の関係、若者と動物との関係、など様々である。この側面を考えると田舎を早く出たくなるし、憧れもなくなる。何が正しいか、何が間違っているのかを見分けることが同じ場所にいると分からなくなる。だから人類は最初からノマドだった。視線を変えて、環境を変えてそして違う価値観と考え方に触れることによって更新される。

最近では自分の中で「移動」というテーマに敏感になった。息詰まった時、旅に出る。この前、3年ぶりに電車に乗ってわかった。昨日までの世界から離れて遠くへ行く。距離をとる。電車に乗るとわかる。私はいつも間という状態で生きている。機械で足を切られたあの蛙と同じ、新しい足が生えるまで、更新されるまでゆっくり、また早いスピードでいろんな人や場所から離れる。そして結局のところまた農作業に戻る自分もいる。りんご畑の手伝いでは今の作業とは葉とりである。りんごに平等に光が届くため周りの葉っぱをとるという作業。これは機械ではできない。春のみすぐりと同じ、一瞬、一瞬の判断でやる。りんごの位置など、様々な条件を参考にして周りの葉っぱを取ってあげて、種類によっては少し回して光を浴びるようにする。また、木の下にシルバーシートを敷く。下から光が反射し、りんごが赤くなる。シルバーシートを敷いた経験があまりにも鮮やかで魂に削られている。現代アートのような体験だった。太陽の光の下でりんごの気持ちになって自分も赤に染まった感覚だった。シルバーシートを敷くたびに眩しい光で目が見えなくなる。写真のフラッシュのように世界が何回も、何回も生まれ変わる感じがした。

家の植木に突然キノコが生えたと発見した朝は大喜び。その名はコガネキヌカラカサタケだとキノコ図鑑でわかった。人間はなんでもカテゴライズするし、知らないことを否定するし、怖いものを殺そうとしているが、キノコはただいる。。そして死んだ後に雲になる。最近の発見では山の中にできる低い雲はキノコの胞子を核にしてできているらしい。娘たちが秋田からの帰り道で雲をずっと眺めて「ママ、雲に乗りたい」と言った。無人販売で買った朝どりのきゅうりを齧りながら「ママ、私たちは河童になった?」。きのこ雲を見てから後ろを振り返ると、きゅうりを笑顔で齧る娘はカッパにそっくりだった。移動している車から見える外の田んぼと雲が遠くにいるのではなくものすごく近くに見える。

ヴァジニア・ウルフの時代には女性は図書館にさえ入ることができなかったけど、硬い考え方を破って娘の時代になると、彼女らはなんにでもなれる気がした。彼女らは光の速度でこの世界を見る/知る自由があるのだ。駐車場が車でギッシリ詰まった頃に、13ページの「すぐに滅びようとしている世界の美しさには、笑いの刃と苦悩の刃があり、心をバラバラにする」という文書を読んで、車から遠くにある山の上に浮いているきのこ雲を眺めた。