シーグラス

イリナ・グリゴレ

ある日、家の前に植えた小さな梅の木の花が満開になっていた。わずかな梅の香りが二階の窓から家に入ってきて、繊細な空間を生み出した。梅の木はあまりにもちいさくて、木と言いえないぐらいミクロな世界の矢印のようにしか見えなかった。これでも夏になると20個の梅が実る。私はその小さな梅を梅干しにする。

梅はすごくデリケートだといつも思う。梅を干すというのはすごく手間がかかる。カビだらけならないように、天気のいい日だけ外に出す。梅を干す時期には私もすごく天気や湿度に敏感になって、梅が生まれ変わるまでの時間を儀礼的な繰り返しの動作で見守る。

春の晴れた日、毎日のように子供たちを車に乗せる動作は、日差しの差し方に関係するのかもしれないが、スローモーションのように感じる。梅の香りのせいでもある。この香りは私の脳に0.2秒で届くらしい。車のドアで小さな梅の木を倒しそうになった。

梅の木を近くで見るとミツバチが花の近くに飛んでいる。そうしてこのミツバチのバイブレーションだけが聞こえてくる、リピートで。頭の中で場所と時間が変わる。子供の時がフラッシュバックで蘇る。私は祖父母の家にいる。毎年、春になると祖父と村から町に出かけ、市場でチューリップとヒャシンスのブーケを売った。この手伝いは私のお気にいりだった。家の前の庭と葡萄畑の中には何百本もの鮮やかな色のチューリップと、ピンクと青色のヒャシンスがあった。この花をブーケにする動作をいまも思い出す。

春の夕焼けの時、家族全員で集まってたくさんの花束を作る。ヒャシンスの肉々しい感触がいまでも手に残っている。香りは光のスピードで家に広がる。ブーケを作りながら祖父は幼い頃、修道院の近くに住んでいた時のことを話したり、教会でお手伝いしていた時、若かった頃の馬と森の話をしたり、時間はあっという間にすぎた。いまでも祖父母の声をもう一度聞きたい。特別な機械で録音したい。その声の内面まで、魂の奥まで録音したい。祖父は機械を作ることが好きだった。不思議な自転車を作っていたことを覚えている。森から薪を運ぶ自転車だった。

あのときは、祖父母の声を残すことを考えていなかったが、今はできれば特別な装置で再生したい。最近気づいたのだが、私は人の声に非常に敏感だ。娘が色に敏感なのと同じく、私は音それ自体ではなく、人の声に敏感だと分かった。心臓の音と同じ。声は人によって全然違うので、声というのは各人に限る音になる。その声は私の身体に響くので、人によって私の身体に毎回違う反応が起こることに気づいた。

話の内容より、私は声に夢中になるときがある。トランス状態のような現象で、不思議にその時は様々なイメージの連続が起きる。例えば、今、こうして書いているときに祖父の声を頭で再生すると、スクリーンショットの連続のようなものが出てくる。ものすごいスピードで。この間見た夢の中では、祖父母のもう一つの庭でスズランの花を見ていた。夜中に私は暗みの中でスズランの白い花を見ていた。あの庭にはスズランがたくさんあったのに、夢の中ではスズランが減っていた。葉っぱをよけて白い花を一生懸命探していた。

そういえば、あの庭には土で作った小さな小屋があって、そこで祖父は昼寝をしたとき不思議な夢を見たと言った。祖父の夢の中では、地獄の入り口で行列を作る男たちがいた。彼らは制服を着て、おでこに数字が書かれていた。祖父もその一人だったが、誰かが祖父を行列から引っ張っていき、おでこに書いてあった数字をさして「まだ、あなたの番ではない」と言ったという。この夢はとても怖かったと祖父は言った。子供の私にはこの夢の雰囲気は骨まで伝わった。当時、ロマの女の子の友達が、私たちを狙う悪魔がいると教えてくれた。世界の終わりのことも子供たちで毎日のように話して想像をふくらませて、その日のための準備をしていた。家から隠してもってきたカーペットなどでテントを作って避難の準備もしていた。畑からトマト、ピーマン、キュウリを取ってきて待っていた。結局、持って来たものを食べて夕方には家に帰ったが、繰り返し何日もこの行動を行って、世界の終わりを待っていた。

カルロス・レイガダス監督の映画『闇のあとの光』にあるように、突然、家に赤い悪魔が歩いてくるシーンは印象深い。村の子供たちはみんな知っていた。私もある日、夕方に畑から一人で家に入ったら鏡にあの姿が映った。赤くなかったけど、今でも身体が震えるぐらい恐ろしかった。

前の日に見た夢の中では、どこかで見たことのある若い金髪の男の子が何もない道で新聞を売っていた。素敵な笑顔で私に近づいて「ジュースください」と可愛い声で言った。この男の子に会うのは初めてではない気がした。この声は知っていると思ったが、思い出せない。誰の声だったのか。子供のときの祖父の声だったのか。父は私たち家族を守る聖人、ルーシのジョンだったのではないかと言った。そのあと、私は地下室(ルーマニアではワインと自家製の瓶詰などを保存するため農家に必ず地下室がある)のようなところに入って、スイカと葡萄が並んだテーブルからおいしそうなスイカと葡萄を選んだ。

梅の木のその日に戻ると、なぜ祖父母の家を思い出したのか分かった。祖父母の家と庭が生まれ変わったからだ。あそこで今はハチミツが採れる。ミツバチを飼い始めて、あの庭と近くの森と畑から蜜が運ばれて甘いハチミツができる。こうやって見ると、場所の命の反復力はすごい。遠く離れた今も、私は自分が育った家、村、庭の蜜、あの場所を食べている。繰り返し私の身体の一部になっている。世界の肉がミツバチのおかげで、私の肉になっている。

今はジル・ドゥルーズの『差異と反復』を読んでいる。イントロダクションにこう書いてあった。「反復することは何らかのやり方で振舞うことである。しかし、何かユニークな特別な何かに置き換えられない関係の中で繰り返される。」また「そして、そのような外的行動としての反復は、それはそれでまた、秘めやかなバイブレーション、すなわちその反復を活気づけている特異なものにおける内的でより深い反復に反響するだろう」。

この「内的でより深い反復」に注目したい。誰もいない公園で娘たちと遊んでいるときに、アザミの若いツルツルの葉っぱに水玉が溜まっていてキラキラしていた。娘は繰り返し水玉を指でつぶして喜んだ。この「外的な行動」は彼女とそれを見ている私に、桜が咲いている誰もいない公園という場所に繊細なバイブレーションを与え、内的な反復が生まれた。彼女の水玉を「初めてを見る」、「触る」体験、その瞬間は永遠に反復される。

私は、自分のふるまいによって、内的に、幼い時に暮らした家、背景、そのとき出会った人々の暮らしを永遠に繰り返し再現しようとしている。

この晴れた日は私の誕生日だった。保育園からの帰り道、カーラジオからプッチーニの「ある晴れた日に」が流れてきた。初めて聞くわけではないのに、はじめて聞いた気がした。ソプラノの声は非常に苦労した声のように感じて、美しかった。

後日、子供たちと日本海に行き、たくさんのシーグラスをひたすら夢中で拾った。石ころの間に小さな、ユニークな、青い、緑、ピンクのガラスのかけらを見つけて喜びを感じた。私たちの命もこの小さなシーグラスのように繰り返し現れるだろう。

ルーマニアのハチドリそっくりな蛾 花の蜜を食べている