帰国記(2019年)

福島亮

6月末から7月いっぱいまで日本に一時帰国した。一時帰国なのだから、意識としては「帰る」という動詞がしっくりくるのだが、困ったことに、その一時帰国が終わって留学先のパリに「戻った」時も、やはり意識としては「帰る」という動詞がしっくりきてしまった。要は帰る場所が二つあるということなのか。実際、羽田空港に降り立ち、スーツ姿の人混みやピカピカと光る電光看板の重なりにぼくはどうしようもなく「帰ってきた」感覚を覚えた。新宿駅東口、新宿通りを通って紀伊国屋書店に行き、そのまま真っ直ぐ進んで明治通りとの交差点に出るあたりの都市の風景(それは風景なのか?)は、どういうわけか懐かしかった。いや、待てよ、そんな東京への懐かしさも、結局はよそ者の心情が形を変えて姿を現したものかもしれない。というのもぼくは群馬県出身で18歳で東京に出たから、「帰る」のは東京ではなく群馬のはず。でも、群馬に帰ってもあまり懐かしいとは思わない。むしろ実家に帰るという行為はぼくの場合、近親者の病気や死の記憶と結びついていてあまり心地いいものではない。今でも高崎線に乗って籠原を過ぎたあたり、深谷、岡部、本庄と続く駅の名前を車内アナウンスで聞くと胸がザワザワする。東京へ、東京へ、だが、いつの頃からか口にしていたその土地から離れ、今度はパリに舞い「戻って」きてみると、どういうわけだか、空港から住まいまで運んでくれるB線の汚れた車両がやけに親しいものに思えたりもする(まだ10ヶ月程度しか住んでいないのに)。ここでもまた、所詮はよそ者が抱く郷愁にすぎないのか。そんな自問を繰り返しつつ、この二重の帰国の際に感じた変な気持ちを記しておこうと思う。

日本に帰国してしばらくしてから原因不明の高熱が出た。伝染病か? はたまた久しぶりに食べた刺身がいけなったのか? よくわからないが、日本を出る時に健康保険を抜いていたぼくは医者にかかるのも気が引けて、原因もわからないまま滞在先の連れ合いの家で寝てすごすことになった。悲しいことに、この高熱こそ今回の帰国の思い出である。

ヴァンサン・ランベールの死を伝えるニュースが飛び込んできたのはそんな時だった。日本ではあまり大きく報道されていないようだけれど、フランスでの生活が開始してからずっとぼくが関心を持っていたのは彼についてのニュースだった。特に5月、6月は彼をめぐる「裁判」のことでもちきりだった。2008年に不慮の事故で「植物状態」になった彼の延命治療を巡って彼の両親と彼の配偶者が対立するという未聞の裁判をフランスのメディアは連日のように取り上げていた。一時は治療継続を望む両親の側の「勝利」とも思われたが、日本の最高裁にあたる破棄院は延命治療の停止を認め、7月2日、彼への水分・栄養の供給が停止された。そして11日、彼は逝った。42歳だった。一人の人間の生命が、裁判で争われ、しかも当事者のランベールは法廷で言葉を発することもできず、無言のまま合法的な死を受け入れるしかなかったのである。水分と栄養を断たれた人間の肉体が残された脂肪を燃やし、燃え尽き、その生命活動が停止した後にゆっくりと体温が失われていくありさまは想像するだけでも苦しい。熱と軽い頭痛を感じながらベッドで寝ていると、ふと、幾万の合法的な死を受け入れざるを得なかった者たちの絶叫が遠くの方でしたような気がした。それは熱がもたらしたまぼろしだったのか。

熱が引いた。それからは人と会ったり、お酒を飲んだりして過ごした。今年は変な夏だ。いつまでも梅雨が明けず、肌寒いような日もあった。18日が過ぎ、19日頃から暑くなり始め、夏だと勇んでクーラーをつけたのがいけなかったのだと今は思う。20日の夜、またしても高熱が出た。翌日は昼間から人と会う予定があったから、どうにか市販薬で熱を抑えた。が、結果として22日の夜から扁桃腺が腫れ始め、23日にはほとんど声が出なくなった。困った。病院に行けば良いものを、それをせずに、大根や生姜やレモンを蜂蜜に漬け込んで飲んだのだが、こと既に遅し、一緒に暮らしている連れ合いにも風邪をうつしてしまい、残り少ない日本滞在は二人して喉の痛みと闘いながら過ごす羽目になった。こうして一時滞在は最終日を迎えた。

日本からフランスへ帰る飛行機がふわりと宙に浮く。見送りにきてくれた連れ合いは今頃帰りの電車の中だろう。ふと、遠くの方で無数の絶叫がこだましたような気がした。幾人もの人たちが今この瞬間に死んでいるなか、空の高みへ、高みへと昇っていく飛行機に無数の生者たちが乗っているのが不思議に思えた。誰の詩だったか、飛行機に乗る無数の足を幻視した詩があったような気がする。その詩をぼくは暗唱できるわけではないのだが、空の高みを無数の足の群れが滑ってゆくイメージだけは鮮明に覚えている。記憶の中にイメージだけを残して忘れられた詩人、彼が見たものは本当に生きている人間たちの足だったのか。あるいは空の高みへと消えていかねばならなかった者たちの足だったのではないか。

パリに着いたのは明け方だった。日本で報道されていた熱波はどこに行ってしまったのだろう。明け方のパリの街は涼しく、どこかひんやりとしていた。住まいに着くと、顔なじみの掃除人のおばさんが歓声をあげて出迎えてくれた。どこにでも自分はいていいのだ。そして、どこにでも今は帰ることができる。それはいつまでも隠れん坊をして遊んでいる子どもの歓喜と不安に近い心境かもしれない。いちぬけたをすれば帰れる。でも、もう隠れ家に帰ることはできない。あるいは、見つかりたくない、しかし、このままずっと見つからなかったらどうしよう。声を発しようか、鬼さんこちら。もしかしたらみんな帰ってしまったかもしれないから。そんな不安と喜びが入り混じった変な気持ちを抱きながら、夏だというのになぜか涼しい部屋でぼくはこの帰国記を書いている。