人間の尊厳(下)

イリナ・グリゴレ

革命が起きた頃、団地のすぐそばに工事現場があった。大きな穴が掘ってあり、新しい建物が立つ予定だった。革命のカオスの中で全国すべての建設計画が中止された。私たちが住んでいた団地の前の穴はとりわけ大きく、まるでクレーターのようで、近所の子供たちの基地になった。私たち子供は穴の中に降りる道を作って大人の世界から離れようとした。穴の底は草のジャングルになっていて、雨が降った時は泥でぬかるみ、夢中で遊べる隠れ家として最適だった。あまりに大きい穴だったので、子供たちはその一角しか使わず、あとは草と虫、蛇と蛙の世界として皆いじらなかった。

別の話もあった。あそこで子供が一人か二人死んだというのだ。クレーターに下りて遊んでいた子供が、壁に横穴を掘って遊んでいたところ、上から壁が落ちて下敷きになった。これを目撃した大人たちが助けようと土を掘っても見つからず、結局どこの家の子かも分からずじまいだったという。

この話を聞いたときから、私はずっとその子の事を考えるようになった。すると空気が以前より吸いにくくなった。その「間―魔(ま)」のことが理解できなかったのだ。それに巻き込まれると、もう二度とそこから出ることができない。ゲームのような様々な宇宙の力の関係がぶつかり合う中、一番方向性の分からない瞬間なのだ。違う時空間があって、それを悪魔が歩いている時間と名付けた。子供しか感じない、あの違和感、あの熱い空気と煙のようなものが流れる瞬間。その時まで、私はなぜか子供が不死身の存在だと思い込んでいたのだ。しかしこのときから、悪魔が歩いている時間を身体で感じた。何者かに狙われている感じもする。あの子と私の身体が重なり、恐怖と危険を感じた。次は私ではないかと毎日思い悩んだ。

父が暴れて身体が固まった時も、悪魔が歩いてくる予感がした。きっと、虫のように身体を固めて、死んだふりをしていたのかも知れない。田舎で虫を観察して覚えた技だったのかも。父の性癖が治ったころ、私の身体も自然と普通の柔らかさに戻っていたが、あのときからどうも私と世界の間にずっと巨大なクレーターがあるような感じは消えなかった。

あのとき、暗い団地に住んでいた私たち家族の身体は苦しかった。自然から閉ざされた空間の中で、生きる苦しさが様々な表現を取りながら悲劇に変わっていった。田舎からやってきた私の身体は、すぐに様々な場面で恥を感じはじめた。学校では、他の子供たちと比べて自分の体が汚いと思い、こうして自分を他人と比べることを、知らないうちに覚えた。

当初の団地にはなぜか給湯設備がなく、田舎と同じようにお湯を沸かさなければならなかった。思い余った父は、ある厳寒の夜こっそり集中暖房のボイラーの栓を抜いて熱湯を取り、風呂を沸かした。そのお湯は赤錆にまみれ、どうしようもないほど汚い色をしていた。こんな汚水でどうやって身体を洗うのか疑問に思ったが、せっかくそこまでしてくれた父に対して文句が言えなかった。

これが社会主義の作図による、共同団地という幸せの図なのだった。寒い団地の部屋で、風呂から上がった肌には茶色い汚れが付き、耳の下にはっきりと見えるほどだった。でもこれはただの錆だと自分に言い聞かせ、心を落ち着けた。その後も長く、世界は穴と錆にしか見えなかった。悪魔が歩いていた「間」が増えるばかりだった。あのときの私の身体が自然からむりやり取り出されて、一つの実験場に置かれた。

もう一度いうが、社会主義とは、宗教とアートを社会から抜き取ったとき、人間の身体がどうやって生きていくのか、という実験だったとしか思えない。あの中で生まれた、私みたいなただの子供の身体がなにを感じながら育っていったのか。それは、言葉と身体の感覚を失う毎日だった。高校生になったある日、急に話せなくなったことがあった。一生をかけてその言葉と身体を取り戻すことがこれからの私の目標だ。

小学校に上がったとき、突然白服を着ている数人が体育館にやってきて、私たちの服を脱がせ、一列に並ばせて検診をした記憶がある。白い服を着た人たちは、私たちの体を細かく視ていったが、そのときクラスで一番体の小さな男の子の表情が、石のように固まった私の体に響いた。あの男の子は骨が見えるぐらい痩せ、下着はすごく汚く、クラスで一番弱い存在だった。勉強もあまりできなかった。そして、彼はあのとき泣き始めた。泣いたのは彼だけだった。その彼の顔はすごく優しく、目は大きく、髪の毛はすでに白く見えた。あの、裸になった彼の泣き顔を忘れられない。声もなく、ただただ立ったまま静かに泣いていた。いまの私にとっては、その姿はそのまま人間の尊厳について考えさせるものだ。

ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を最後まで書き切れなかったことが残念だ。社会主義でもなく、資本主義でもない世界があるとすれば、そこはどんな世界だろう。人の身体が商品にならない日がきっとやってくる。

身体は社会的な支配装置から出ることができるのか、といまだに問い続ける。あの暗い団地の廊下で、バレエの夢は完全に失われた。この身体はずっと踊りを探し続けてきた気がする。シュルレアリスムはまだ始まったばかりだと感じることがある。

(「図書」2016年11月号)