イリナ・グリゴレ

昔から人の家の中を覗くことが好きだった。夕焼けの時、暗くもなく明るくもない時間帯で、レースカーテンの裏からぼやけた光が差している時。近所を散歩するとそれぞれのお家の中に家族の様子が見える。ごはんの支度するお母様が見えたり、テレビを見るおじいさんが見えたり、様々なシーンが見える。


今住んでいるところのすぐ近くに古い家があって、その家の一部は昭和の雰囲気の喫茶店だった。現在はお店をやっている様子はないが、木で出来ている立派な看板が残っている。その店の名はカタカナでメモリーという。もう誰も住んではいないのだろう。近くを通ると家の前に真っ白な猫がたまにいる。何かを守ろうとしている様子で家の周りをウロウロしていた。


ある日、家が完全に壊されて、木材しか残ってなかった。家のガイコツしか見えなかった。中にいい雰囲気のカウンターが見えて、いつかあそこでお酒を飲みたかったなと思っても間に合わない。


その翌日、そこは家の影もなく、土地は綺麗に更地になっていた。黒い土の上に何もなかったかのように。あのあたり見えた白い猫も、それ以来近所に姿を見せなくなった。家が無くなるのはこんなに早いのか。その木に刻まれた思いと家族の生き方があっという間に更地になるものなのか。


私の祖父母の生き方を思い出させる。迷わず自然とともに生きること。メモリーという看板をみて、幼い時のフラッシュバックが訪れた。


私が育てられた家のイメージが脳の裏に彫刻されている。「惑星ソラリス」という一九七二年のアンドレイ・タルコフスキー監督の作品を思い出した。研究者の主人公はソラリスという惑星に調査のため送られる。地球から離れる感覚が細かく伝えられ、人類の未来を問う作品でもある。その惑星には海しかないが、その海自体は生き物のようにみえて、巨大脳になっている。その海が、地球から来た人間の頭のなかを覗く。彼らの記憶と考えがすべてその海に映されている。宇宙ステーションに死んだ人が現われたり、そこにいる研究者が耐えられないほど不思議なことがおきる。


最後のシーンではステーションから見える黒い海の中に島が出来て、そこに主人公の育てられた家とそっくりの家が映されている。あのイメージは彼にとって、そしてあの惑星の海にとって一番印象的なイメージだったに違いない。私でいうと、どこかの未来の世界で私の脳のなかを誰かが覗いたら、きっと私が育てられた家のイメージが出てくると思う。遠く離れても私の身体の一部になっている。


日本に住みはじめてからだけど、何年も前に見た夢の中で、私は列車から降りて祖父母が住んでいるコマナという村にたどり着いた。幼い頃から慣れ親しんでいたコマナの小さな無人駅のすぐ近くには、沼があるから蛙の声が聞こえる。


真っ直ぐ歩くと交差点がある。右は修道院に行く道、左は森へ行く道、真っ直ぐは祖父母の家へ行く道だ。今は詩人の名前になっているこの道を迷わず歩く。夢なのにあまりにリアルだが、周りの木が全部ジャスミンの木だと気づく。しかも見事に咲いている。駅から家まで道の右左にたくさんのジャスミンの木が咲いていた。


この夢をみたとき、祖父母はもうこの世にいなかった。家で彼らが私を待っているという感覚は強かったけど。


私だけではなく、一緒に子供の頃あの家で過ごした弟も、似たような感覚があったという。祖父が亡くなったあとで弟は家の夢をみたそうだ。


薪ストーブがついている部屋にいたら、外から祖父がいつものように元気な笑顔でロシアンスタイルの帽子を被り、入ってきた。弟は、あなたは亡くなったんだよ、なんでここにいる? と聞いた。そうしたら、僕はずっとここにいたよ、と言われた。祖父が自分の手でコンクリートを流し込んで、祖母と二人で最初から最後まで作った家から、どうやって離れるのか。死んでもできないのかもしれない。


弟の話を聞いて、初めて家というモノに対して深く考えさせられた。

あの家に行くと、今は不思議なことに野良猫しか住んでいない。この猫は勝手に上がり込んで、毎年、一番綺麗な部屋で子供を七匹ぐらい産んでいる。


子供の時、私が連れてきた野良猫を祖母は追い出して、猫が大嫌いと言ったことを覚えている。その理由はあった。家を建てたばかりのことだったみたいだが、祖母の得意な伝統的なカーペットとタオルの作品をしまっている部屋に猫が上がり込んで、子供を産んでいたそうだ。部屋と作品は血だらけになって、それ以来、猫を見るたびに叫んで追い出す祖母だった。


だが亡くなってから不思議なことに、家に猫が上がり込んで子供をたくさん産んでいる。


今でも訪れると、木と庭の植物、祖父が植えたぶどう畑があるのが見える。家も小さくなったと感じるが、まだ生きている。あのぶどう畑に、昔はたくさんのチューリップが咲いて、時に青いネギができて、イチゴができていた。


子供の頃、家から出ると、朝はぶどうの葉っぱで向こうは何も見えなかった。森も近いから本当にぶどう畑の中に狼がいると信じていた。その話を祖母にしたら、祖母は近所の人に話し、更にぶどう畑の向こうの家に住んでいた九〇歳のバァバァ・レアナに話した。そしてその人が狼の声を真似して、私を驚かせた。怖かった。バァバァ・レアナがいなくなったら、狼もいなくなったが、そのことに気づかず、高校生になって、祖母から聞いた。


ある日、祖父がその中でものすごく大きな蛙を見付けたことも記憶に残っている。あの蛙は本当に大きくて、魔法使いの蛙みたいだったからすぐ庭の外に捨てた。


その蛙が来た年に、入り口の門の近くにあった大きなクルミの木が急に枯れて来て、秋までに大きなキノコだらけになっていた。そのキノコを家族で食べた。子供の頃にあの木の下でたくさん遊んでいた。記憶の中で、あの木の下で小人みたいな生き物が住んでいた。みんな、どこへ行ったのか。最後の最後まで私たち家族にたくさんのキノコを残してどこか違うところ行ってしまった。


そのあとは庭の木が皆枯れはじめて、それは最初のサインだった。門から入って、右にクルミの木、左にぶどうの木とりんごの木にライラックの木があった。みんな枯れてしまった。ただ、ぶどうの木だけが今でも強く生きている。


その次の春には、祖母が大きなクルミを土に植えて新しい木の芽が出るのを待っていたが、出なかった。幼い頃のジプシーの二人の女の子の友達の話によると、各家の下には足がついている大きな白い蛇が住んでいる。その蛇がいなくなると、家からその家族はいなくなると言われた。


最近よく家の夢をみる。夢の中で、私は子供の時に住んでいた家に戻った。祖母が待っていた。ずっとここにいたよと言われた。二人でパステルカラーの椅子に座って、テーブルで祖母が作ったジャガイモのトマト煮込みを食べた。庭で採れた野菜が甘くて美味しかった。肌で感じる祖母と洗濯したばっかりのレースのカーテン越しに外の光が穏やかだった。二人でいつも通り静かに食べた。ただそれだけの夢。祖父母があの家にずっといる、今でも、こう感じる。

映画「惑星ソラリス」の中で、主人公が家に戻ったかのようなシーンが最後にある。家のドアの前で自分の父親を抱いている。このノスタルジックなシーンは原作の本になかったし、タルコフスキー監督が作家と喧嘩もして、批判を浴びた。


この映画を何回もみたが、なんでこの終わり方を選んだのか、やっとわかった。ソラリスに預けていた一番大切な記憶があの家だったのだ。遠い未来では、違う宇宙の者が人間の脳を絞ったら、きっと最終的に幼いころの家のイメージが出て来る。お互いに傷つけたり、戦争したり、他の動物を食べたりするが、人間はとてもデリケートな生き物だ。記憶という海の中では必ず家という島がある。その島は未来と過去の家族と出会える場になっていると思いたい。


先日また夢の中で祖父母の家と庭が出てきた。世界の終わりのような背景の中で。地震が起きて、近くの森で火山の噴火まで発生した。庭と家の周りにすごいスピードで土砂崩れが起きた。最終的に宇宙のような真っ黒の中に祖父母の家と庭だけ残っていた。

(「図書」2018年11月号)