日本に何で来たのか

イリナ・グリゴレ

その日も、薄いピンクとボルドー色の靴下を片足ずつ履き、ジャージの上に長いコートを着て幼稚園のお迎えに急いだ。帰りに娘たちは仲の良い友達の家に誘われた。私は色の違う靴下を履いていたこと恥ずかしくて、一緒に車に乗った娘の友達にそう言った。「えー、大丈夫だよ、そのほうが面白いかも」と言ってくれたので安心した。「イリナのマスクが紫で可愛い」と言い続けてくれ、靴下の色違いを批判されないことが嬉しかった。この子は転校してきた娘たちをすぐ受け入れてくれた。いつも抱っこしたり、可愛がってもらって、娘たちはハーフとしての意識もなくスキンシップを取ったり、私を「〇〇のお母さん」ではなく、イリナと名前で読んだり、6歳になったばかりの地方の町の女の子とは思えないぐらいクリエイティブで広い世界を視線に入れている性格の持ち主だ。この女の子のお母さんともさまざまな話をした。娘たちがプリンセスのドレスに着替えてファッションショーを開くのを脇で見ながら、これからの日本と教育について語り合った。

「これからはダイバシティーの時代で、子供の個性が求められる時代だから」と娘のクリエイティブな部分を評価した私に、ダジャレの大好きなお母さんは「台場シティ?」と最近テレビでオリンピックをきっかけにきく言葉に戸惑うフリした。英語でdiversityと書いて渡し、多様性など今時の言葉についての議論を二人でし始める。こうしている間に、私の家に来るとき、喋りながら子育てと研究と仕事の両立に追いつかない私の洗い残したお皿を綺麗に洗ってくれて、「ものが多いから」片付け難いだろうと、いつか整理してくれるという。大晦日の前の日に泊まりにきた友達もガスコンロをピカピカに磨いてくれたし、仕事の日に預けるところのない娘たちを自分の家で見てくれた友達もいる。そして、原稿を書いていて、ごみ出しを忘れてしまった時は、ごみ収集車のお兄さんがすごく忙しいのに家にピンポンしてくれて、「大丈夫ですか?ゴミはありませんか」とわざわざ聞いてくれる。

考えてみれば、日本に来てから私の日常はこうして誰かの優しさによって救われている。移民、外国人留学生、肌の色、髪と目の色というバリアを越えて、優しくしてくれる誰かが私の周りに必ずいる。最初はもちろん単純な疑問として、「目が青いから世界が青く見えるの?」と聞かれたり、留学生同士で固まり、地元の方とどうやって接していいかわからない時もあったりした。日本語が怪しい、貧しいと言われたりした。様々な経験があるが、必ず聞かれるのは「日本に何できたの?」優しい声、緊張した声、キツい声、可愛い声で。その時、私は思い出す、そうか、私は見た目が違うのだ。もちろん、私に興味があるから聞かれるが、こんなに見た目ですぐバレる、ここの人ではないこと。

どこにいても同じだ。ルーマニアでも見た目、服、肌色(マイノリティもたくさんいるので)で人をカテゴライズする。大した悩みではないかもしれないが、私の場合、いつも年より若く弱そうの女の子のイメージがある。喋り方がいつも緊張しているから、笑いすぎたり、甘えているように見えるのだろう。もう気にしなくなったけど、いつも「人は見た目で人を判断する」と思う。どこにいても。本当の自分は「男っぽい」というか、いつも「男がよかったのに」と思う。だから、この顔で学生の前に立つときは最初に「こう見えても研究者です、人を見た目で判断してはいけない」と言ってから、「文化人類学とはなにか」の講義を始める。

「日本に何で来た」と聞かれ続ける。来てほしくなかったのか? これは私が日本を褒めなければならないという問題ではないと最近気づいたので、あまり長い答えをしなくなった。答えはシンプルに、「遠くへ行きたかったから」。誰にでもこの想いがあり、共感するのではないかと思うからだ。ルーマニアの村で、寂しく一夏をかけて本をたくさん読んでいた私は『雪国』という一冊と出会った。本の最初のイメージに惚れた。トンネルを抜けた列車の雰囲気。感覚で感じたものは、それまでの人生で一番確かだった。ルーマニア語に翻訳されていたにもかかわらず、なぜか私はそれを日本語で読んだ気がした。

そのころ言葉に悩んでいた。私の考えをうまく周りに話せない、感じていること、やりたいことも表現の壁にぶつかり、うまくいかないと思っていた。音楽のように、通じる電波のようなイメージで直接に身体同士にコミュニケーションできる方法がないかと考えた時、映画と出会った。映画というか、正確には「シネマ」だ。『雪国』を読んだとき「これだ」と思った。私が喋りたい言葉はこれだ。何か、何千年も探していたものを見つけた気がする。自分の身体に合う言葉を。その時、全てが繋がった。映画監督になりたかった「田舎から出た普通の女の子」として受験に失敗し、秘密の言葉である日本語を思い出した。「映画」で表現できないならきっと新しい言葉を覚えたら身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるため言語なのだ。

バスの中で俳句の本を渡してくれた同じ年の明るい女の子と一緒に、日本語学科のある小さい大学に入って朝から晩まで日本語を浴びた。入学初日、私の恩師になるアンジェラ・ホンドゥル先生とエレベーターで出会った。初めて私を信じる人に出会い、救いの匂いを感じた。ヒッピーな格好をしている内気な女の子と、先生の周りにいる強そうな弟子と一緒に乗ったエレベーターの1分は半日のように感じられた。今にしてみればあれはエレベーターではなく宮沢賢治だったのではないかと思う。彼女は私の目を見て、「来週までに私の本を半分勉強して」と言い、私は「はい」と返事をした。全ての始まりだった。彼女の上級日本語クラスの一番後ろの席に座って、当時、先生がルーマニア語に翻訳していた村上春樹の小説と夏目漱石の小説の話を聞いて、日本語の楽しさと美しさを再確認できた気がした。その2年後のある日、ホンドゥル先生は、映画とパフォーマンスに興味を持っている私に「あなたは獅子になりなさい」と言って、奨学金の審査結果を渡された。そうして私は今、獅子舞を踊り、研究している。偶然といえば、偶然かもしれないが、彼女は私の才能を信じたすごい人なのだ。私にとって、彼女は初めての女性としての研究者との出会いであり、モデルである。

その一年後、もう一つのきっかけが与えられた。一年間の交換留学を終えて右も左もわからない中、生活費のために仕事し始めたころ、休暇を取ってボランティアとしてシビウというルーマニアで最も美しい町で、中村勘三郎の歌舞伎公演を手伝った。音響担当のルーマニア人スタッフと日本側のスタッフの通訳をしたのだ。古い工場の建物を使って日本からきたスタッフが舞台を作り、「夏祭り」の準備が整った。私は性格が熱いルーマニア音響スタッフと優しそうな雰囲気の日本のスタッフの男たちのコミュニケーションを何とか平和に終わらせた。私の日本語が完璧からほど遠いにもかかわらず、日本のスタッフは優しく対応し、私の友達と一緒に酒も飲んで、家族の写真を見せてくれた。音響の仕事が興味深かったので、たくさんお話した。一番好きな瞬間は、「夏祭り」という古典の歌舞伎の戦いの時に、救急車の音が聞こえる場面だった。中村勘三郎さんは新しいものが大好きなのだと音響の方が説明してくれた。そして3日間の公演で、音響の部屋から救急車の音が発生する瞬間を私も見守った。

遠くを歩く中村勘三郎の天使のような笑顔。最後の公演後に舞台に上がって花束を渡した私にとって貴重な瞬間だ。その瞬間に時間が止まった。目が合った瞬間に音も、周りの風景も消えた。すごい人の目を見る瞬間はきっとそういうものだ。彼の力をいただいた気がした。その瞬間に私は日本に戻って研究者になる夢を追いかけると決めた。

その夏、締め切りの最後の日の1時間前、奨学金の応募書類を日本大使館の近くのマクドナルドの外のテーブルでまとめて写真を貼ろうとしたら、急に嵐のような風が吹いて書類は全て庭に飛ばされた。冷たい汗をかきながら、他のお客さんにも手伝ってもらいながら、何とかまとめて大使館に向かった。閉館5分前だった。

冷や汗をかいた後、地下鉄に乗ったら、スーパーのビニール袋のように夢が膨らんだ。生活にも夢にも余裕がなかった日々、何ヶ月も返事を待った。面接に呼ばれた時、最初の手術の後だったので麻酔の影響がまだ残ったせいかもしれないが、とても落ち着いた声で「研究者になりたい、まだ誰も研究してないことを研究したい」と言った。その後もひたすら待った。仕事をやめて、彼氏の家を出て、一人で引っ越して、祖父が亡くなって、お金もなくなって、新しい仕事を探してルーマニアで有名な現代美術家のアシスタントの仕事が決まって働き始めようとした時だった。何か月ではなく、何年も経った気がした時、大使館から電話が来た。奨学金受かったという知らせだった。

この間、長女とお風呂に入って抱き合って、お互いの目を見つめた。彼女のキャラメルのような柔らかい茶色に湯風呂の湯気とともに魔法にかけられ、浮いている気分になる。「お人形みたいな目」と知らない間に声を出した私に、娘は「ママはフランス人形みたい」という。6歳になったばかりの彼女がどこでフランス人形を見たのかわからない。日本語が私より上手い。お風呂から出たら、壁に飾ってある彼女が書いた絵に茶色の髪の毛の私と黒い色の髪の毛の彼女が描かれているが、ドレスは二人とも虹色だ。私はいつも娘の言葉が面白いので忘れないようにノートする。お風呂で言われたことを書く。「ママ、フランス人形みたい。」それを見た娘は「違う、ひらがなの「た」が長すぎる」と、私の書いた字を赤ペンで直した。その下になぜかピクルスのようなぶつぶつのある太いきゅうりのような物体を描く。「これ何か知っている?」「きゅうり?」と祖母がピクルスにしていた大きなきゅうりの話を始めると、娘は笑いながら「違う、オタマジャクシの池でした」。

「ママは何になりたいだっけ、そうだ、博士だ、ママは必ず博士になる」と応援する娘が寝る支度をし、「おんどく」という子供向けの寝る前の1分に読む日本の名作を出して大きな声で読み始めた。「吾輩は猫である、名前はまだない」の次は「メロス」の話。次に「僕らはみんな生きている…ミミズだってアメンボだって…みんな友達」と、最後に「みんな違って、みんないい」。次の朝、ずっとパジャマで何かを描いている。私も忙しい時はずっとパジャマで論文を書いたりするし、一日中着替えない日もあるから真似し始めたのだろう。最近ではいろんな絵を真似したらと私が提案している。昨年、一緒に見たピカソの絵も入っている画集を本棚でさがす。「着替えてください」と何度も言うのに着替えない娘は大きな声で叫ぶ。「ピカソはパジャマでしか描けない」。日本になぜ来たのかの答えを見つけた気がする。それは同時に「違う角度から世界を見るため」だった。