葡萄の味

イリナ・グリゴレ

土曜日の夜、アゼルバイジャンの作曲家が作ったバレエ音楽をラジオで聴きながら、娘たちと3人で獅子舞の練習から帰る。ドラッグストアでドリトスを買って、久々に食べたくなったから片手で運転してムシャムシャに食べている自分が車の窓から見える気がする。自分が夜行性の野生動物にしか見えない。スナック菓子ではなく、猪を齧っている顔だ。今は車の中なのか、外なのかわからないぐらい浮いている気分だ。それはそう、何年か振りに獅子舞を舞ったから。下手だったが、その時空間では私の身体がものすごく軽かった。何百年も前の踊りを身体に与えるチャンスが生きている間に誰も一度でもいいから体験してほしい。その踊りには全てのこの世の秘密が隠されているから。

言葉はいらない、歴史も地理も、音楽も、国語も、社会も、科学も、全ての科目を一瞬でわかる。その上、身体は透明になってあらゆる生物と繋がるという感覚になっていく。腰を低くしていたせいか、手術の傷あたりに気持ちのいい痛みを感じた。山伏由来の踊りだ。治療された気がした。その夜はお囃子がなかったが、音が身体の奥から響いた。誰か歌っていたかもしれない。こんな美しい世界だったのかと練習を終えた娘に言いたくなる。皆はつながっている。皆は同じ生き物だと周りのメンバーと遊び出す子供を見て、自分の足と頭、腕などバラバラに集会場に広がる感覚となる。帰りのラジオでアゼルバイジャンのバレエを聞いてピッタリだと思った。このバレエで獅子舞をやりたい。

真っ暗の帰り道で育っていた村をよく思い出す。村とは世界のどこにいてもあまり変わらないかもしれない。同じ星が光っていることは確かだが、暗やみも同じ。薪ストーブの匂いも同じ、空気も同じ味がする。私の村にはりんごではなく、葡萄畑が広がっていたのはただのディテールなのか。葡萄の味といえば初恋の味だ。ドリトスを食べながらこのことを思い出すのかと自分に怒っているが、あの頃のイメージが頭の中で苦しいと思うぐらい再生されている。外に出て遊びたい子供のように。きっとどこの村でも、初恋が同じのような同じではないような経験だ。赤松啓介の『夜這いの民俗学』を読むと男女の性は時代、文化、村などによると思う。普遍的な初恋の経験がない。ここ最近の私の疑問—生物の身体、物体の経験は普遍的ではないことが確かなのに、なぜ社会は普遍的にしようとしているのか。社会とは何?誰?

娘がなぜか隣で「パチンコをやりたい」と言い出すから自分の考えが切れた。「やったことがある?」と聞くと、「ない」と答えるけど、キラキラした光に魅力されて入ってみたくなるそうだ。パチンコには入ったことがないけど、初めて日本に来た時に、コンビニ、ドラッグストア、ゲームセンターに入った時の驚きを覚えている。それは私にとっていまだに現代アートの体験のような体験だ。

ドリトスを買った時も、新しくできたドラッグストアで娘とピカピカの床を踏んで足音に敏感になって、棚とたくさんの色鮮やかな商品の間を歩いて目眩がした。毎回そうだ。おやつを選ぶのに10分はかかる。多すぎて、次女がどれにするか「迷っちゃう」と、パッケージの写真を見比べ、一番色鮮やかで、一番綺麗な写真がついているおやつを選ぶ。こんな綺麗なプリンなどリアルの世界では存在しないのにね。パッケージの下に小さく「イメージです」と書いてある。文字が読めない次女は幸せ者だ。ある意味で、色のセンスと想像力が育つかもしれないので楽しむしかない。

お陰で、次女はスイカペペという観葉植物から来年までに大きなスイカができると信じているし、ペットにはキリンがふさわしいと思っている。いつキリンを飼うと思い出すたびに聞かれる。母親として本当の世界を見せる責任があると言われても、当の母親も本当の普遍的な世界が分からないので難しい。でも、スイカペペからスイカができたら楽しいと思う自分がいるので、その想像を壊したくない。世界がつまらなくなる。結局のところ、全ては、人間を含めて種から出るので、その種を植えて何が出てくるか想像することは大事だと思う。想像と体験は同じだ。

初恋の味に戻る。13歳の遅い秋に私は隣の村の従姉妹の家に泊まった。彼女の家の向かいの家に4歳年上で若い頃のジョニーデップそっくりの、村一番のイケメンが住んでいた。彼は私をみて「かわいい、ほっぺは桃みたい」と寒い日に顔が赤くになる私に言った。喋ることはそれだけ。彼の母も私をみて「美人、本当にほっぺが桃みたい」と言った。その夜に従姉妹が私を村のディスコに連れていった。村の若者は酒を飲みながら大きなスピーカーで音楽を鳴らして踊っていた。私は初めてこんな所に入ったから音と光、タバコの煙で目眩したが思い切り踊った。テンポがゆっくりのラブソングが始まったとき、カップルでくっついて踊っている者が多い。彼が私を誘って、初めて暗みの中で彼の黒い目が猫の目のように光ると気づいた。それ以降、このような経験はもうないと思うほど身体が溶けるような感覚で彼と繋がった感じがした。帰りに何も喋れないまま畑の間の道を歩いて、従姉妹の家の前のベンチに二人で座った。ベンチの上に葡萄の木があって、黒いスチューベンの葡萄が見事に実っていた。彼の目も、スチューベンも黒かった。星もお月様もない夜に葡萄を食べた後、人生で初めて男にキッスされた。その後は口の中に広がった葡萄の味が身体に染みて、いまだに感じている。初恋は永遠に私にとって葡萄の味がする。桃ではなかった。次の朝に街に戻って、毎日、彼に会いたくて泣きながら高校の受験勉強をしていた。彼にもう会うことがなかった。たまに本当にこんなことがあったかどうかわからない時もあるが、口の中で広がるスチューベンの味を身体が覚えている。

娘たちと獅子舞の練習から帰って車でアゼルバイジャンの音楽を聴きながら、隣の村の彼と結婚してずっとあの村で暮らす人生を想像した。しあわせだったのか。でも、貧困、低教育、DV、喧嘩の可能性が浮かんできて、想像するのをやめた。しかし、なぜか、車の中でチーズドリトスを食べているにもかかわらず葡萄の味しかしない。