豆のスープの水溜まりとスズメバチ

イリナ・グリゴレ

夢のなか、祖父母の村のメインストリートを歩いた。駅へ向かっている。一人じゃなかった。背の高い人が一緒に歩いている。最近、よくある話。夢でしか会ってないけど、一緒に歩いている。あのときルーマニアに残した彼ではないかと、たまに思う。彼とも夢で最初に出会ったから。でも違う。背の高さだけ同じで、あとは雰囲気が全然違う。一緒にいて安心できる。先日見た夢では一緒に歩いて、そして雨の後に昔よくあったように、道路に水溜まりができていて、前に進むためには真ん中を通るしかない。それで一緒に水溜まりのなかに入ったけれど、水溜まりではなく、祖母が断食のころによく作っていた私の大好物の豆のスープだった。豆のスープの中を歩いていいのかと思いつつも、足を漬けた。食べてないのに足から栄養を吸うような感覚。そんな水溜まりのような豆のスープの中を、二人で歩いていたときに起きた。

最近、言いたいことがあり過ぎて、直接人に言えなくなっている。SNSを通して伝えている。いいか悪いか、どうでもよくなっている。一番伝えたいのは「怖くない」ことだけど、みんなが臆病な世界だから、これも無駄。胸を張って誰に向かって「怖くない」と言っても、聞く耳を持ってないし、詩のような遠回りする伝え方のほうが一番いいけど、詩なんて誰も読まない世界になってしまった。プロパガンダについての本を頭で書いている途中だから、こうなっても仕方ないけど、矛盾を発見する度に言葉をもっと嫌いになる。ジプシーの友達のようになにかあるとき唾を吐くほうが下品だけど効果がありそう。つまり、口から出すものは言葉ではないほうがいいと、昔から知っている。ゲロ、唾、食べ物を吐き戻す赤ちゃんのように。あとは口でキスすればいいし、噛めばいい。

朝に起きたとき、口の中が痛かった。寝ながら自分で自分のほっぺを噛んで、食事もできないほど痛い。口を開けると大きな傷が見えた。自分で自分を食べ始めたのかもしれないと思った。自分の尻尾を食べる蛇のイメージを思い出して、あれはなにかミスティックなシンボルだったけど、思い出せない。それより、口が痛過ぎて喋れないし、顔の半分が麻痺している気がしたから、脳梗塞のサインではないかと心配になった。調べたら、スマイルできない、片手を上げさえできないのが危ないので違っていた。でも身体が麻痺している感覚が続くのに、子供のために動かないといけないので、私も冬眠できない熊のようだ。

先月、東京に2回行って、その疲れが出たに違いない。ワンオペで子供たちと向き合って、なおさら麻痺してきた。SNSで政治に暴れている半面、自分の日常はヴィム・ヴェンダースとリンチのような映画に近い。ある種の静けさを見つけた気がする。怖くない静けさ。そしてこの感覚に世界が反応する。車で過ごすことが多いけど、あるとき道路に私以外車が走ってないし、人が誰もいない。もう世界が静かに終わったのかと思えるような場面が増えてきた。吉祥寺までのタクシーもこのようだった。今回は韓国映画の中にいるみたい。人間関係の難しい映画、ホン・サンスの『草の葉』みたいな。神田川の話を思い出した。緑色の川、テラスでコーヒーを飲んでいるカップルはいつか結婚するのか。

次の日に井の頭公園に面したデンマーク風カフェに行った。いつもコンクリートの壁と熊のぬいぐるみの絵が明るく出迎えていたのに、今回は入った瞬間から不思議な電波を感じた。カウンターの子が二人とも私の後を見て、フリーズしていた。あの静けさか、ここも世界が終わっていたのかと思いながらテーブルに座ったが、あとでわかった。入り口のドアの窓に大きなスズメバチがいた。青森で見るのと同じ大きさ。カフェの後にある子豚ふれあいの店も静かだった。怖くなかった。スズメバチは自分の世界に入ってじっとしていたけど、カフェの雰囲気が前と全然違って、もうここに来ないと思った。スズメバチが私に何か大切なメッセージを伝えたと思った。この世界では生きているのはスズメバチしかいない。

外に出ると井の頭公園のトイレの前を通り、雨が降り始めた。シルクの白いブラウスに雨跡が残った。この井の頭公園のトイレは『パーフェクトデイズ』のロケだったに違いないとなぜかトイレに魅力を感じる自分がいた。音楽と本と映画があれば、この静かな世界で生きられる、わたしも、と急に居場所を見つけたようだった。豆のスープの水溜まりの中で歩いた人が誰だと、私はいつも誰かを探す感覚とともに生きていると、空港へ向かうバスではっきりした。誰だったのか知っている。きっと弟の一人。また夢で会おう。ゲームセンターに入って一人でUFOキャッチャーしようとしたが、全然できなかったから悔しくて泣いた。東京まで来たけど、どこにいるの?