先月の続きで、『言葉の花束』という小冊子を手元に置いて書いている。この1ヶ月は心に余裕がないというのか、時間の余裕もあまりなくて殆ど何も書けなかった。2016年4月から休みなく続けてきた「朝のページ」も、じつはこの10月、1日だけお休みした。「朝のページ」というのは、1日の始めにそのノートを開いて、思い浮かぶことを1ページ分書き出すという日課だ。その朝は時間に余裕のない旅行のさ中だったので、あえてノートを持参しなかったのだが、その朝の1ページは近日中に取り戻そうと思っている(つまりその朝は2ページ書くことになる)。休んでしまったら、仕方ないからまた翌日からいつも通りにやろうというのではダメで、どこかで無理して取り戻したい気持ちが私にはある。
 心に余裕がない時には、いろんなものを浴びるようには読めない。読むものを選ぶことになるのだが、そんな状態でも『言葉の花束』はいつも手元にあった。作者は「をまつ」さんという人で、近年『アフリカ』を愛読してくださっている方のひとりである。連絡して訊いてみたところ、収録されている詩は10年以上かけて書き溜めたもので、その間の読者は、友人とその家族に限られていたということのようだ。ごくごく個人的なものである。
 そこでは詩は、たとえば「安否確認」になる。
 南風に尋ねます
 きみが今日を
 無事に過ごして
 いるだろうかと
 お元気ですか
 きみの家族は
 きみの住む街の
 皆さんは元気ですか
 全文は引用しないが、ここでは部分に注目する方が、際立つものがあるかもしれない。そんなふうに思いながら書き写している。これは「お元気ですか」と「尋ね」ている手紙のようなものかもしれない。しかし手紙と違い「きみ」に直接尋ねることはなく、「安否確認」は「風」に乗って漂っている。宛先は、じつはないのかもしれない。「きみ」のいる街は「南」にあるそうだが、「きみ」は長く会っていなくて連絡先もわからなくなった友人かもしれないし、昔に別れた恋人かもしれないし、もしかしたらもういない人かもしれないという気がする。
 詩は、街の細部を照らし出しもする。たとえば書き手の住む「名古屋」は、こんなふうに現れてくる。
 目を覚ますと
 そこには街があった
 土手の上で犬の散歩
 町工場の
 シャッターが開いて
 小さいビルの
 窓が開いて
 喫茶店の
 ドアが開いて
ささやかなスケッチというふうだが、よく見ると、そこには書き手の暮らしが出ているようだ。「その人」という詩があるのだが、「その人」とは、きっと彼自身のことだろう。
 食品工場のある街で
 故郷を思いながら
 きつい仕事をこなす
 その人の毎日を
 その人が休みに
 行きつけの小さな店で
 故郷の料理に
 郷愁を感じたことを
 夜明け前の食品工場の
 ボイラーの煙は
 淡い夜風に運ばれて
 あなたの街にたどり着く
 その人が丁寧に
 作ったその食べ物が
 今のわたしのからだの
 一部を作った物語を
これは結局、全文を引用することになった。「その人」は書き手自身であると同時に、見ず知らずの誰かでもあるようだ。詩はまた、問いかけにもなる。「なかったことにするな」という詩がある。
 なかったことにするな
 日々を積み重ね成長した
 歴史の地層の厚みと深さを
 繰り返され営まれてきた
 遠い国の家族の暮らしを
 なかったことにするな
 路地に響き渡る
 子どもたちの笑い声を
 世代から世代に受け継がれる
 言葉と文化をつなぐバトンを
この詩は『言葉の花束』の最後に置かれていて、一番長い。このように「なかったことにするな」で始まる連が11、並んでいる。読み進めるにつれ、戦争や紛争といった強者の歴史(?)を意識して書かれていることが感じられるが、反戦というより、諦観という方がふさわしい。私はその姿勢に共鳴を覚えるようだ。「なかったことにするな」ということは、「覚えておけ」「覚えておきたい」ということになる。書くことは、何かを覚えておきたいという願いと共にあるのではないか。
 しかし覚えておくというのは、そう簡単なことではないようだ。最近の私は、こうやって書きながらも、同じことを前に書いたかもしれないという疑問を手放せない。酷い場合だと、先月書いたことすらもう忘れている(という話も前に書いたかもしれない)。印象深い出来事を覚えていて書くのなら、ある程度までは覚えているのかもしれないが、書き続けるということは(生き続けるというのと同じで)平々凡々とした日々の中にこそある。そこでは昨日何を食べたのか覚えていないのと同じことが起こる。しかし書くことで、残るのである。残ること自体を良いことだと言えるのか、そうとも言えないのか、微妙な感じがするのだが、とにかく書いたら残る。そういう感触が得られないとしたら、私はたぶん何も書けないだろう。
 『アフリカ』最新号(vol.37/2025年8月号)掲載の対話「岡山にて」では、守安涼くんが乗代雄介さんから聞いた「言葉の役割は残すこと」という話を紹介している。先日、その乗代さんの『皆のあらばしり』を読んでいたら、それが具体的にどのようなことなのか、書き「残す」ということの深みに魅せられている。江戸時代後期に小津久足という商人・紀行家が残した書物と栃木市皆川の郷土史を着想とした、「皆のあらばしり」というフィクションの偽書をめぐる小説なのだが、関西弁ふうの喋り方をする謎の男が、語り手である歴史研究部の高校生にこんなことを言う。
「書いたもんはすぐに読んでもらわなもったいないと思うんが大勢の世の中や。ひょろひょろ育った似たり寄ったりの軟弱な花が自分を切り花にして見せ回って、誰にも貰われんと嘆きながらいとも簡単に枯れて種も残さんのや。アホやのー。そんな態度で書かれとる時点であかんこともわからず、そんな態度を隠そうっちゅう頭もないわけや。そんな杜撰(ずさん)な自意識とは対極にある『皆のあらばしり』みたいなほんまもんを引っ張り出すんがわしの仕事やねん」男はおもむろにぼくの肩に手を置いた。「素敵やん?」
それを素敵と思うかどうか私は知らん。ただ、発見した者から見て何のために書かれたのかよくわからない「本」が現実に(あるいはフィクションの中に)存在していて、そういうものに自分がものすごく惹かれることは確かなようだ。書かれていることが本当のことなのか、あるいは嘘なのか、読者には完全に判別することが出来ない。「書く」ということはそういうことなのだ。そんなものを、何のために書くのだろう。自分自身のため、だろうか。それもアヤシイ。そもそも書き手は、何のために書いているか、わかっているものだろうか。仮にわかっているとしても、それは持続するものだろうか。書けば書くほど、わからなくなってくる。そのわからなさに私は魅せられているということではないか。