『アフリカ』を続けて(1)

下窪俊哉

 2010年の春だったか、よく遊びに行っていた家で、ある小冊子を見つけた。そこは二階建ての、ちょっと変わった風貌の家で、知人の住居兼仕事場(デザイン事務所)だった。一階には古本が山ほど集められていて、よく覚えていないのだが、古本屋をやる計画があったのではないか。ある日、そこで本を見せてもらっていたら、隅っこの方に小冊子の束が見えた。あ、これがあの『水牛通信』か、と思い、何冊か手にとってみた。内容は覚えていないが、その薄さ、軽さ、モノクロ印刷の素朴な感じは印象深く覚えていて、親しみすら感じている。その時、どうして『水牛通信』の存在を知っていたのだろう。津野海太郎さんか平野甲賀さんのエッセイを読んでいたら出てきたのではなかったかと思うけれど、覚えていない。

 その頃、『アフリカ』という雑誌を始めて4年が過ぎていた。『アフリカ』は当初、続けようと思っていなかったのだが、なぜか続いてしまい、しかもその雑誌が呼んできてくれる人との出合い、仕事の流れまで出てきたので止められなくなってきていた。
 もともとは売る気もなく、「推価300円」という価格がついていた。「推価」とは、推定価格の略だ。なんて真面目に書いているのも何だか可笑しい。
 いい具合にやる気がなかったのだ。すごくなかったわけでもない。すごくあったわけでもない。
 『アフリカ』には創刊号がなくて、「2006年8月号」をいきなり出した。だいたい続ける気がないのだから、創刊も何もない。
 当時、京都で行われていた「世界小説を読む会」(翻訳小説の近刊を毎月1冊読んで集まり、お喋りをする会)で、年上の文学者から「いい書き手がいるから」と紹介され、短編小説の原稿を預かったので、「では、雑誌でも1冊つくってみますか」ということになった。読んで、ちょっと「いいな」と思った。「越境」というタイトルの小説だった。それに応えて、自分は「音のコレクション」という短編を書いた。あと縁のあった数人に声をかけたら、2人が応えてくれた。4人の作品に、短い雑記を幾つか入れて、1冊つくった。
 『アフリカ』では編集も、組版も、全て自分ひとりでやることにした。理由は簡単で、その方が楽だから。100パーセント自分だけで、というのは、しかしちょっとつまらない。と考えて、表紙のデザインは旧知の守安涼くんに頼んだ。彼は「デザイナーかもしれない」と自分で言ってしまうことのある編集者だ。わざと間違った拡大の仕方をしてガタガタになった「アフリカ」の表紙の文字は彼が考えた。
 その1冊ができて、その守安くんとビールを飲みながら、出来上がったばかりの『アフリカ』を見ていたら、「なんかおもしろいね」という話になった。
 それで魔がさしてしまって、「またやりましょう」という話になったのだろう。
 しかし「続けよう」とは考えないようにした。1冊、1冊をその時々につくる。つくりたくなくなったらいつでも止めたらいい。止めたら、次の新しい流れが見えてくるので、止めるのは得意だ。続けるのは、あまり得意ではないかもしれない。
 イン・デザインでつくるけれど、紙版印刷で、もちろんオール・モノクロ、当初の部数は100で(少ないと見るか多いと見るか)、しかもなるだけ薄い冊子にしようと思っていた。お金もなるだけかからない方が楽だからだ。
 ただ、楽したい楽したいと言っている割には、手がこんでいるような気もする。
 後づけで考えてみると、立派なもの、豪勢なもの、格式の高いものがあまり性に合わないのだ。
 簡素なものには、なぜか惹かれる。
 『アフリカ』2006年8月号を完成させた直後に、茨木市立中央図書館に併設されている富士正晴記念館を初めて訪れてみた。そこで、『VIKING』の創刊号を展示ケースの中に見た。何か、妙な感じを受けた。よく見てみる。あ、綴じられていないんだ、と気づいた。
 『VIKING』は戦地から戻ってきた富士さんが、井口浩さんや島尾敏雄さんらと共に立ち上げた同人雑誌で、創刊号は1947年10月、富士さんのエッセイ「VIKING号航海記」(『贋・海賊の歌 富士正晴評論集』収録)を確認したら、こんなふうに書かれていた。

 必要なものは何か。
 (1)原稿、これは楽だ。(2)紙、どっかで貰えばよい。(3)原紙、手持ちがある。(4)印刷インク、これは買ったかな。(5)労働力、ガリ版は井口が切った。印刷、島尾とわたしがすった。うじゃうじゃ言いながら家人に手伝わせて折る。そしてそれを重ねて綴ったかと言えば、絲が高いより手に入りにくいので、重ねたまま表紙ではさんだような気がする。表紙はわたしが木版でほって、刷った。唯、井口がガリ版切りで疲れると、彼の細君に厭味を言われたのがつらかった。

 何やら大変そうだ。そういう時代だった、といえばそれまでだろうが、戦後の若き文学者たちがせっせせっせと貧しい雑誌づくりに励んでいる様子から、2006年の夏にいた私は励ましに近いものを受け取った。それでもいいんだ! できるだけのことをやれば、何でもいいんじゃないか、本は何とかなるもんだ、と。

 それにしてもどうしてこんなことをしているんだろう? 『アフリカ』をつくっていると、いまでもたまに思う。どうして? さあ? 何なんだろう。