『アフリカ』を続けて(10)

下窪俊哉

 2010年の夏、『デルタ 小川国夫原作オムニバス』という映画をつくった人たちから声がかかって、少しお手伝いすることになった。その時、『アフリカ』別冊として『海のように、光のように満ち〜小川国夫の《デルタ》をめぐって』という冊子をつくり、映画館で販売して読んでもらったのだが、ある夜、その本を何冊も買い込んでいる人がいた。
 上映後に私はトーク・ゲストとして前に出たのだが、その人は私の話を聞きながら何度も、声をあげて笑っていた。それが井川拓さんだった。終わってから、オムニバス映画の1篇「他界」の監督・高野貴子さんに紹介されて、居酒屋に流れて行った。井川さんは私のつくった本を一通り褒めたあと、「じつは僕も書いているんです」と言った。どんなものを? と訊いたら、児童文学に深い関心があって、というような話をしていた。何冊も買ってくださったお礼に、と持っていた『アフリカ』最新号(vol.9)をプレゼントしたら、パラパラとめくって、「これに僕も書かせてくれませんか?」と言い出した。

 児童文学作品が送られてくるものだと思っていた。しかし送られてきたのは「映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』覚書〜『エリコへ下る道』から『デルタ』へ」だった。
 その前半には、彼が学生時代に高野さん、富田克也さんらと出会い映画をつくり始めた頃のこと、自分たちのことを「空族(くぞく)」という映像制作集団にしようと言い出した頃のことが書かれている。『エリコへ下る道』というのは、小川国夫の短篇小説を映画化しようとしたもので、空族の黎明期に撮影され、未完に終わった映画である。その後、空族が『雲の上』『国道20号線』を経て「夜通し莫迦話ばかりする集団」ではなくなり、着実にファンを増やしている中で、井川さんは映画製作から離れていたはずだが、彼が大好きな小川国夫の小説を映画化する絶好の機会を得て、舞い戻ってきていたのだった。
 その原稿は夏の終わりに書かれ、秋の初めにかけて何度も改稿されて、『アフリカ』vol.10(2010年11月号)に掲載されている。井川さんが亡くなった後、私は回想して次のように書いている。

 井川さんは自作につながる原石を発見するようなことには素晴らしい才能を発揮したが、それを磨く作業には疎かった。推敲は進まず、校正は粗かった。ほころびを直そうと提案する私に、井川さんは苛立った(私も苛立った)。(「井川拓さんとの八ヶ月間」、『井川拓君追悼文集』より)

 翌2011年1月まで井川さんは『デルタ』の上映活動に奔走していた。その後、2月に京都で珈琲をご一緒した時には、もう嵐が過ぎて、『デルタ』は過去のものになっていたような気がする。空族は新作『サウダーヂ』の完成間近で、私も、そして井川さんだってもちろんそれを楽しみにしていた。
 井川さん自身は再び、そして本当に映画製作から離れ、児童文学に力を入れて、文学賞にもどんどん挑戦してゆきたいというような話をしていた。「下窪さんもそういうのもやればいいよ」とも言われた。
 亡くなったのはその2ヶ月後だ。あっという間だった。その間に、3.11があった。亡くなる1週間前に、私は手紙を受け取っている。封を開けると、越前和紙の葉書の片面に楽しそうな自作の絵があり、もう片面に『デルタ』上映の動員結果とお礼が記されていて、「また会うのを楽しみにしています」と書かれていた。私はすぐに返事が出せなかった。そして、永遠に出せないままになった。

 いま、井川さんの遺稿「モグとユウヒの冒険」を本にして、アフリカキカクから出そうとしている。その原稿を初めて読ませてもらったのは2015年だったから、亡くなって4年たった頃だ。一読して、驚いた。井川さんは『デルタ』と並行してこんな作品を書いていたのか、と。琵琶湖の畔のマキノを舞台とした、小学生の兄弟とその家族を描いた作品で、事故による高次脳機能障害のある伯父と、子供が描いている落書き帖の中に現れる犬・モグが、読むたびにいろんなことを教えてくれる。いつかこれを本にしたい、と思っていたが、何年もかかってしまった。
 井川さんは無名の作家というより、まだまだこれからというところで亡くなってしまったので、幻の作家と言った方がよさそうだ。この本には少し解説が要るだろう、と考え、せっかくなら井川拓の伝記になるようなものを書いておこう、と書き始めたのはいいが、なかなか大変。
 頼りになるのは、『井川拓君追悼文集』と、井川さん自身が書き残した『アフリカ』vol.10の文章、井川さんの没後に家族が作成していた年譜、5年ほど前に富田さんと相澤(虎之助)さんを呼んでトーク・イベントをした際に自分がつくった資料「映像制作集団・空族の映画とその源流、支流」くらいで、はっきり言って少ない。子供時代のことや家族のことについては彼の姉に話を聞いて、初めて知ることも、あらためて考えることもたくさんあった。
 そういったネタを手元に集めて置いても、井川拓がどんな人で、どんな創作世界に向かっていたかを書くのは楽ではなくて、その解説の原稿に2ヶ月近くかかってしまった。
 本人が生きていたら、聞いてみたいことが山ほどある。しかし、それは夢の中で聞くか、想像で書くしかない。想像のついでに、もし彼があの後も生きていて、書き続けていたらどんなものを書いただろう、ということまで考えた。
 そうやって書き始めた直後に、高熱を出して数日、寝込んでしまった。
 体調が悪くなると、死者との対話は明るくなるようだ。井川さんは一度、夢に出てきてくれた。しかし何やら話をするような状況じゃなくて、原稿を書いている時の方が話せていると思った。久しぶりに小川国夫さんとも会えた。しかし夢の中では、何も話さない。いや、ことばがないだけで、たくさん話せているような気もする。目を覚まして、しばらく天井を見て過ごす。今日も書き進めよう。