『アフリカ』を続けて(20)

下窪俊哉

 前回は新しく始めたウェブの雑誌『道草の家のWSマガジン』の編集が楽しいという話で終わっていたが、その後、約1年ぶりに紙の雑誌である『アフリカ』の”セッション”も再開した。しかし年1冊というのは、重い。1冊のヴォリュームは落としてもいいので、年数冊を出すというくらいのペースに戻してゆきたいのだが、そのために理想を言えば、原稿が勝手に集まってくるというふうなシステムが要る。編集人(私のことだが)の重い腰が上がるのを待つというのでは、やはり年1冊のペースになるだろうし、そうするとやはり雑誌自体にも重さが出る。

 じつは前号(vol.33/2022年2月号)の感想で多かったのが、これまでになくシリアスな内容だった、というものだった。いつも『アフリカ』を読んでくださっている皆さんには、その重さも愉しんでもらえたかもしれない。そうなった理由はそれぞれの作品の中にもあるかもしれないが、編集によるものが大きかったかもしれない。前半に並べた「書く」ことについてのエッセイは、考えることを読者に誘うものだったし、深刻というより真面目。あるいは、このどこか暗い時代の影響を受けてそうなっているのだったりして。などと考えていると、よし、次はもう少し明るいもの、軽いものを目指そう、ということにもなる。
 とはいえ、書く人たちには、書きたいことを書きたいように書いて、というだけなので、明るい編集、軽い編集、ということになる。どうやって、どうなるのかは、やってみなきゃわからない。結局はいつものようなことになるだけかもしれないが、頭の隅には置いておこう。

 ところで、『WSマガジン』を読んだ方からは、「読みやすくて面白かった」という感想が多い。中には「『水牛のように』を毎月、隅々まで読むのは楽じゃないけど、『WSマガジン』は全体をさらっと読める」と話してくれた人もいる。褒められているのだろうことを承知の上で、しかし私はまた考えてしまう。まあそうやって比べる必要はないと思うけど、楽じゃない部分もあった方が面白いような気もする。もっと何というか、読んでいてひっかかったり、詰まったりするようなところがあってもいいのにな、と。
 書きっぱなしの粗削りのものをどんどん出してゆこう、と言ってはいても、実際に書いてみたら、読みやすくてちょっと面白いような文章になってしまう。読みやすい文章を書くなんていうことは楽なことなんだろう。
 ということは、読みにくい文章を書くのは難しい?
 何にひっかかるのか、どこで踏みとどまるのか、あるいは、どこで書けなくなるのか。
 そんなことがじつは大事なことなのかもしれない。
 書けないことをこそ、書きたいと思う気持ちが自分にはある、なんて言ってみたくもなったりして。
 もっとゴツゴツした、うまく言えないようなことを書こうとして失敗したような文章が並んでいてもいいと思う。

 その「ゴツゴツした」という言い方は、富士正晴さんからいただいた、好きなフレーズだ。太平洋戦争の前に『三人』、戦後に『VIKING』という同人雑誌をつくり、亡くなるまでかかわり続けた富士さんは、全国各地から送られてくる同人雑誌を読むのも好きだったらしい。ここで、そのことを少し書こうと思って『贋・海賊の歌』(未来社・1967年)を出してきて、「VIKING号航海記」を読むと、「同人雑誌の小説のたいていは文壇の風俗、流行のイミテーション」だが、稀に「今の文壇で通用しないかも知れないふしぎな純度をもっている作品」「硬質の結晶体のような作品」を見つけ出すことがある、それが「同人雑誌読みとしてのわたしのいささかの楽しみ」だと書いている。この話の裏を返せば昭和の一時期、文芸の同人雑誌が「文壇」の2軍と見られていたことを語ってもいるのだが、私がかつてから注目しているのは例えば次のような文章である。

 このごろうれしいことは同人雑誌が文壇への階段であることを目的とせず、自分自身の存在を第一目的とするような傾向がふえて来たことだ。あまり目がチラチラよそに走っていない。これは自信というものだろう。よそに認められなくても安定している。つまり、雑誌中の評価を相当信じ合っているということである。

 これはつまり『VIKING』のフォロワーが出てきて喜んでいるのである(その「傾向」はいつ頃まで続いたのだろうか)。『VIKING』は自らの存続そのものを目的とし(というふうな言い方をする)、いわば自動操縦の船を造り乗り込み、内側にはその時々でいろんな問題を秘めているとしても、富士さんの没後35年たついまもその航海を続けている。しかも月刊である。
 私はそこに「続ける」ということの花や果実を見るような気がする。
 どこか離れたところに湧く評価を動力としているようでは、「続ける」が燻り弱ってくる。燃料は、自ら与えればよいわけだ。
 そこには「原稿が勝手に集まってくるというふうなシステム」があるはずだ。
 自分がそういうシステムをどうやって構築できるか、という問いの先に、ワークショップというイメージがあったのだ、ということがここまで書いてきて何となく理解できる。自動操縦とまではゆかなくとも、いつでも(雑誌をつくっていない時でも)場が活発に動いて、生きている必要があるだろう。その役割を『WSマガジン』が担ってくれるのではないか、という予感がいまはある。

 どんな小さな石でも、投げれば何らかの波紋を呼ぶだろう。それがどんな波紋になるかはわからない。しかしそんなことはこの際、どうでもいいではないか。それより小さな石を集め、投げ続けることの方に歓びがある。いまのこの社会にはどうやら、失敗が許されない(過去の失敗を許さない)とか、傷つくことを徹底して回避しようとするような傾向があるらしいという話も聞く。そこで失敗こそ人を育てるとか、傷つくことのない人生が面白いかなどとお説教を始めるのもまた容易いか、しかし、ね、小さな石を集め、投げ続けることに失敗も成功もない。ただ集め、投げるだけだ。ただ続けたらよいだけだ、ということを私はいま少し言いたいような気がしている。