しもた屋之噺(252)

杉山洋一

この原稿を書いているコンピュータの脇に、野坂恵子さんのお葬式でいただいた、小さなカードがおいてあります。表には後光をいただく聖女が描かれていて、裏には「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。(マタイ5・8)」とあります。

新年は明けましたが、今年がよい一年として人々の記憶に残る可能性は、限りなく低いと思います。たとえそんな一年であろうとも、人々は等しく必死に生きて、沢山笑ってとめどなく泣いて、時には怒ったりもしながら、美味しいものをたらふく食べるのを夢見つつ、われわれも頑張ってよい音楽をやろうとしているはずです。そんなささやかな毎日を積み重ねて、何とかこの暗い一年を無事にやり過ごせたらいいな、そう思いながら暮らしています。
心なしか、日中の陽の光が少しだけ強くなってきた気もします。気のせいかもしれませんが、でもそう信じて、一歩ずつ足を踏み出したい、そんな思いに駆られてもいます。

1月某日 ミラノ自宅
日本滞在中の息子が町田の両親宅を訪問。スカイプで少し話し、両親と息子と一緒のスクリーンショットを撮った。手製の叉焼でラーメンを作ってもらい、簡単なお節と一緒に、大根だけのあっさりした雑煮も食べたという。夜、息子は老父に町田駅まで送ってもらったらしい。

美恵さんにメールしていて、小学生の頃、すっかり日焼けした立原の小さな詩集を持ち歩いては、立原の詩の内容よりも、ところどころの旧字体の漢字に痺れていたのを思い出した。とりわけ「八月の金と緑の微風のなかで眼に沁みる麦藁帽子」の「麥」の字を偏愛していて、半世紀過ぎてこう告白するだけでさえ、胸の高まりを抑えられない。

1月某日 ミラノ自宅
武満作曲賞で演奏したシンヤンから年賀状が届く。現在、中国は特に高齢者の死亡が多く、シンヤン自身も年配の親戚を失った。シンヤンはアメリカに滞在中だから、葬式すら出られない、ただただ辛い、と書かれている。

大晦日夜半、ロシア軍占領地域ドネツク州マキイウカのロシア軍臨時兵舎爆破。ウクライナ軍は400人殺害と発表、ロシア軍も89人の死亡を認めた。ただ、戦争とは狂気そのものだとおもう。

1月某日 ミラノ自宅
久しぶりにティート宅を訪問。昼食にヒヨコ豆のパスタをご馳走になる。妻のマリアはブルガリア人で、彼女は子供たちと常にブルガリア語で話している。マリアの両親は医者で、揃ってソヴィエトもロシアも嫌悪していたが、現在までブルガリアは親ロシア勢力が強い影響力を持ち、ウクライナへの協調を気軽に表明できる状況にはないそうだ。アルバニアのオペラ劇場が終身雇用で月給1000ユーロになったと話すと、ブルガリア国立オペラよりずっと待遇が良いと驚く。

昨日の日本Covid死亡者が456人で本日463人。過去最多とのこと。新規感染者数は23万8654人。イタリアの本日の発表は未だだが、12月26日から元日までの統計では、Rt値が0.84から0.94。死亡者数は、12月23日から29日の合計706人で、12月30日から1月5日の合計が775人とある。新規感染者数を見ると、1月第一週は一日平均17443人、二週目は一日平均19424人で、例え計算方法に相違が認められたとしても、日伊の差は顕著である。現在の日本の状況は、一体何が原因なのか見当がつかない。これからヨーロッパでも同じ現象に襲われるのかもしれないが、未だその兆しすらない。尤も、イタリアの公共交通機関では、自主的にマスクをしている年配者は多い。
旧暦のクリスマスを祝い、ロシア軍は一方的に休戦宣言。ロシア、ウクライナ共に散発的な戦闘は止まず。

1月某日 ミラノ自宅
家人曰く、作曲をしているときは機嫌が良いらしいが、こうも筆が進まないと、どう気分を変えてよいかもわからない。

当初、功子先生からは「自画像」のようなヴァイオリン協奏曲を書いて欲しいと言われていて、それ以来、2021年8月タリバンがアフガニスタンの公共の場での音楽演奏禁止を発表した直後に銃殺された、民謡歌手ファワド・アンダラビの弾くギチャクの旋律を使うべきか、まだ迷っている。ペルシャの民族楽器ギチャク(Ghaychak)は、ヴァイオリンに近しい弓絃楽器で音域もほぼ等しい。

功子先生のための作品を生々しいものにするのは気が引けるが、アフガニスタンから逃げ出した無数の音楽家たちや、息を凝らして必死に生きるアフガニスタンの女性の姿が頭から離れず、何らかの標を自作に書きつけておかなければと思ってきた。だから、もう少し悩んでから、きっと何某かの形でファワドの旋律がヴァイオリン協奏曲に埋め込まれることになるのだろう。

本日の日本Covid関連死亡者520人との発表。一体どうなっているのか。NHKラジオニュースを聞いていて耳を疑う。家人、息子ともにミラノ帰宅。

1月某日 ミラノ自宅
松平頼暁さんの訃報。心底Covidが恨めしい。松平さんから直接お願いされた、未初演のレクイエム上演を完遂できぬまま、松平さんが亡くなってしまった。ただ悔しく申し訳なく、限りなく無念だ。

「冬の劇場」の頃から、足繁く演奏会を聴きに来てくださり、その度に励ましていただいた。その松平さんご自身からレクイエムのお話しを伺い、とても光栄に思っていたし、当初はお元気なうちに上演可能と信じて疑わなかった。オペラ「挑発者たち」と「レクイエム」は、絶対に納得ゆく形で上演すると心に決めてきたが、結局コロナ禍に翻弄されてしまった。併しその逡巡は、自分の詰めの甘さや一寸した気の緩みや、微かな諦めが折り重なった所為ではなかったか。後から悔やむくらいなら、人生無理にでも突っ走った方がよいと頭では理解している積りだったが、浅はかであった。今はどうにも気持ちの整理がつかない。

フェニーチェ堺の福尾さんよりお便りを頂く。平井さんや当時関わった様々な方を思い出すと、涙が止まらない、とある。
「みんな、どこにいってしまわれたのでしょう。でもこうして杉山さんからのメールを拝読し、ああ、あの時間は本当にあったんだ。同じ時間と同じ至福の時を過ごした方がいらっしゃったんだ、そのことを思い出せただけでもありがたく、嬉しかったです」。

1月某日 ミラノ自宅
朝、11時。霙雑じりの雨に打たれながらパトリツィアに会いにでかけた。昨今の音楽界を席巻するのはSNSで人気を博す音楽家ばかりで、本当によい音楽家であるかどうかは二の次になっている。娘や孫の世代にどんな音楽や文化を遺してやれるのか甚だ不安だ、と畳み込むように話す。
彼女曰く、ブレンデルはマスターコースをするとき、完璧な演奏より寧ろ個性が生きる演奏を目指して指導していたそうだ。

岡村雅子さんの訃報が届く。岡村さんとは、大原れいこさんと三人で集っては、川上庵で蕎麦など啜りつつ、いつも他愛もない四方山話にばかり花を咲かせていたから、音楽関係者というより、ごく普通の友人として受け入れて下さっていたのだろう。
下北沢のレディジェーンで、娘さんがいれたボトルを二人で静かに味わったこともあった。そんな時ですら一切涙もこぼさず坦々と娘さんを偲んでいらしたから、流石に格好良すぎる、無理をしないでほしい、と内心心配していた。
「16歳!もう親の手綱からは離れているんでしょうね。でも不思議なことに、遺伝子はいろいろなところに見受けられて、もどかしいというか、親子の繋がりを、いろいろな場面で感じることができて。突然、私の娘のことを思い出してしまいました」。
「娘のことは大丈夫です。折につけ、いろいろ思っていますから。この間下北沢の小さな空間でハロルド・ピンターの2人芝居を演出した演出家は、ほぼ30年前私達家族がここに家ができて引っ越してきた時に、娘が一番初めに連れてきた人で、きっと、演劇の話をしたら止まらない、別に恋人じゃないけど、いつまででも話していたい、そんな間柄だったんだなあと今頃思ってますし。折につけ、そんな感じで娘が登場しています。色々な人との出会いも楽しんでます」。
漸く春彦さんとも娘さんとも、勿論れいこさんとも再会されて、岡村さんは相変わらず格好よく、素敵な時間を過ごしていらっしゃるに違いない。我々は少しの間寂しいけれど、でも岡村さんが倖せなら、それも我慢できる気がする。

1月某日 ミラノ自宅
早朝、中央駅6時過ぎの特急でフィレンツェへ向かい、佐渡さんのマーラー、リハーサルを見る。朝8時過ぎのフィレンツェは行き交う人も疎らで、ジョットの鐘楼はどこか凛とした佇まいを見せる。街角で道を尋ねると、みな実に親切に教えてくれる。朝の冷気もミラノより少し緩く、心なしか人々の表情も明るい。
佐渡さんの音楽は懐が深く自然に呼吸していて、尖ったり邪魔をするものがないから、演奏者の身体にそのまま溶け込むのだろう。オーケストラの奏する音はみるみる変化して、文字通り圧巻である。オーケストラも、のびのびとしていて、とても弾きやすそうだ。
夕方からミラノで授業があったので、ゆっくりと話し込む時間はなかったけれど、つかの間の再会を喜ぶ。ミラノに戻る直前、駅前の四川料理屋で海鮮麺と肉なし麻婆豆腐をかきこむ。周りの客は地元の中国人だったらしく、揃って中国ケーブルテレビの旧正月記念番組に見入っていた。

1月某日 ミラノ自宅
ケルン旧消防署にて、渡邉理恵さん指揮、アンサンブル・デヒオのリハーサル見学。特殊奏法の多いファラの作品に対して、まず奏者の疑問をていねいに溶きほぐしてから、それらを音楽の流れに浮かべてゆく。外から眺めていると、作曲者、指揮者、演奏者、それぞれの音楽が、次第に中心へ収斂され、一つになってゆくのが、つぶさに理解できた。やがて、作品を通して、演奏家、指揮者の音楽がより鮮明に浮かび上がるのも興味深い。

稲森くんや渡辺裕紀子ちゃんの作品を演奏しているとき、こうしたヨーロッパの日々が彼らの楽譜の向こうに見えていたつもりだったが、久しぶりに間近でその空気に触れると、より具体的に、直接的に、彼らの音楽の本質を深く肌で感じられて、なんだか嬉しかった。

作曲者が提起するアイデアの収斂点から、どんどん深く掘り下げて啓いてゆく姿勢は、瑞々しく新鮮であった。何より、指揮者と演奏家が揃って作曲者の意図を誠実に汲取ろうとする姿勢に大変感銘を受けた。リハーサルは濃密でありながらしつこくはなく、有意義であった。

ミラノ国立音楽院のアウシュヴィッツ解放記念の記念演奏会で、息子がロッシーニやショパンの断片を弾いた、と家人よりヴィデオが届く。

1月某日 ミラノ自宅
旧消防署庁舎近くの広場の朝市でドイツ風クロワッサン二種とワッフルを購い、スタンドでコーヒーを淹れてもらい朝食とする。美味。クロワッサンはどちらも濃厚な味わい。そのまま渡邉さんとすっかり話し込む。朝市の肉屋の店先はすっかり磨き上げられていて、高級感が漂っていた。聞けばこの朝市は富裕層がターゲットで、質も高く値も張るそうだ。

ケルンより帰宅。ケルン在住の作曲家、ファルツィアはイラン出身で、家族はみな本国に残っている。数年前に比べて、状況はすっかり厳しくなった、とこぼす。イランに戻れるけれど、自分は現政権にとって不都合な人間になる。家族とも連絡は取れるけれども、安全ではないし、インターネットは遮断されているから、VPNを使わなければならない。
海外からの情報は以前から制限されていて、市民は国外からの文化や情報を渇望していた。その証に、家人がテヘランを訪れたときは、熱狂的に歓迎された。現在はその交流すらすっかり影を潜めている。国が変わらなければいけないが、それはとても大変だともいう。君の音楽はご家族の希望だねと話すと、そうね、と少しだけ口元が緩んだ。
彼女はケルン・ボン空港の近所に住んでいて、発着する飛行機を見上げては、時に思いを馳せているという。

1月某日 ミラノ自宅
ナポリ広場の広告板には、黄色と青色のデザインで、ずいぶん長い間「NO WAR」と表示されていたが、このところ、「あなたのため、ミラノのため」特集に入れ換えられた。
路面電車の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、公共交通機関を使おう」、LED電球の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、LED電球を使おう」、階段の写真に添えて「あなたのため、ミラノのため、階段を使おう」と書いてあって、要は節電要請である。
ウクライナ侵攻から1年近く経ち、戦争反対の声は聴かれなくなった。NO WAR ではなく、STOP WARとスローガンは書き換えられ、英米国に続き、ドイツもレオパルド2のウクライナへの供与を決定し、ヨーロッパ全体として、ウクライナの侵攻を現実に受けとめているようだ。サンレモ音楽祭のなかでゼレンスキー大統領が声明を発表するとかで、サンレモでゼレンスキーが話して意味があるのかとイタリアでは冷笑が広がっている。

冷戦中ソビエトのミサイルは、北大西洋条約機構基地のあるトリエステではなく、ユネスコ世界遺産であるヴェニスに焦点を定めていて、ウクライナ市民やライフラインを狙うロシア軍を思わせる。1年後、我々の生活がどうなっているか、正直なところ、わからない。

1月某日 ミラノ自宅
どこか妙な一日であった。朝、家人と散歩して帰宅中、路面電車の停留所で、まさに乗込もうとしている格好そのまま、俯せに倒れ、微動だにしない男がいて、運転手が駆けつけていた。
夕刻、学校を終えて帰宅すると、家人が後ろから走ってきた電動スケートボードに跳ね飛ばされ、全身を強く打っていた。

自宅前のドン・ミラーニ橋から、シーツに黒スプレーで書きつけられた垂幕がかかっていて、現在収監中のFAI(非公式無政府主義者同盟)指導者アルフレッド・コスピトが、刑務所規則41条bis反対して行っているハンガーストライキが150日に突入し、健康状態の悪化を訴えている。イタリア各地で非政府主義者同盟の支持者らが、火炎瓶などを使った抗議活動を展開しており、国外でもベルリンとバルセロナのイタリア大使館関連施設での破壊暴力活動に及んだ。ミラノの日本領事館から、デモなどに近づかぬようメールが届く。

(1月31日ミラノにて)