先月(3月)末に『アフリカ』vol.34を出した。まずは表紙に、見られる。そこには切り絵の羊が顔を出していて、「アフリカ」の文字は横に倒して置かれている。あとは例によって「3/2023」とだけ書いてあり、どんな本なのか表紙だけではサッパリわからない。表紙も『アフリカ』に寄せられた作品のひとつなのだから、なるだけシンプルなものにしたいと思っている。それは17年前の、続ける気のなかった創刊時から一貫してそうだ。
表紙を開くと1ページ目から、なつめさんのエッセイ「ペンネームが決まる」が始まっている。『道草の家のWSマガジン』vol.1(2022年12月号)に載っているものから推敲を経た、とりあえずの完成形で、昨年の秋、東京の下町から長野県の村に移住した経緯から、新しい名前が決まるまでを書いている。適当に、いい加減に、ということの難しさを感じつつ、ふとしたことからその名前はやってくる。
そのあとに目次がくるというのも、いつものパターン。虚実入り乱れたクレジット・ページも相変わらずで、そこを見るのを楽しみにしているという読者もいらっしゃるから止められない。そこではここぞとばかりにふざけたいのだが、長くやっているとネタ切れにもなる時もある。今回はちょっとそんな感じかもしれない。
今回の『アフリカ』には珍しく詩が3篇も載っている。神田由布子さんの「vehicle」は、『WSマガジン』vol.1に載っているものをそのまま載せた。しかしあれは横書きなので、これはぜひ縦書きで読みたい、と思った。新たな旅立ちの歌。重さの中にある軽さの発見が作品になったような詩。
竹内敏喜さんから私が原稿を受け取るのは、じつに18年ぶり。『アフリカ』を始める前にやっていた『寄港』に書いてもらって以来だった。一昨年の秋、久しぶりに手紙を出してやりとりが復活した時に、最近は殆ど発表の機会がないと知らされて驚いて、よかったら『アフリカ』に書きませんか? という流れになったのだった。「蛇足から」は今回、1〜3を掲載しているが(続きがあるとのこと)、いま書くことの怖れを感じつつ、「善」と「正義」への考察が繰り広げられる。いや、考察ではないのかもしれない。ことばを探っている。それは「詩をひらく鍵」だという。
もうひとつは、いつもの犬飼愛生さんによる「寿司喰う牛、ハイに煙、あのbarの窓から四句(よく)」という長いタイトルの詩。犬飼さんの作品は詩とエッセイで「同じ人が書いたの?」と言われるくらい落差がある、けれど、この詩にはエッセイの中にあった要素も流れ込んできているようで、ついには短歌が挿入されたりもして見開き2ページの中でごった煮になっている新境地。人と人が敵対するというのはわかりやすいが、そうではなく、テーブルの上に玉石混淆、雑多なものをズラリと並べて「おいしく食べあいましょう」と呼びかける。ややこしいし、厄介かもしれないけど、それが本当の平和というやつじゃないかなあ、などと思っているところだ。
編集を通して、この3篇には、詩を書くことにかんする詩である、という共通点も見えてきた。それらの詩でサンドイッチにしたように、今回は短篇小説を2つ、収録してある。まずは、UNIさんの「日々の球体」、交わったり、すれ違ったりしている男女三人の人間模様を描く快作と思う。UNIさんは妄想を豊かに働かせて書ける人で、たとえば登場人物の誰かが何かを見ると、そのものを見るのに留まらず別の何かが必ず思い出される。そんなイメージの広がりがある。しかしそんなふうにして長く書くというのは、なかなか困難なようだったが、今回は(400字詰め原稿用紙で計算して)30枚ほど。小説というのはやっぱり、長さがモノを言うところもある。最初に読ませてもらったバージョンからも加筆があり、そこまで書いてようやく現れてくるものがあった。
もうひとつは私(下窪俊哉)の「四章の季節/道草指南」で、「日々の球体」と同じくらいの長さの短篇小説。22年前に書いた「四章の季節」は二人称を試してみた習作だったが、その型を使って、全然違う話を書いてみた。1日という時間、1年という時間、人生という時間、そんなふうなことを重ねて思い巡らせているうちに、フィクションの街、人が出てきてくれた。私は10数年前から「道草さん」と呼ばれることが増えたが、ちょっとした道草論を書いてみたいという気持ちは前々からあった。この小説は、そんな自分の気持ちに少し応えた。
そうやって詩や小説が並ぶ中、雑記とかエッセイというような散文をどう生かすかというのが、『アフリカ』編集人の腕の見せ所だ。髙城青さんのエッセイ漫画「それだけで世界がまわるなら」は2020年秋以来の続編で、お父さんを亡くして2年たった家族の現在を、そのお父さんが大好きだった珈琲を介して描いている。それを読みながら私は、珈琲とは我々にとって何とさり気ない味方だろう! と感嘆する。
「自然を感知した人〜井川拓と空族の黎明期」は、富田克也さんが若き日の盟友・井川について語った貴重な記録(約8千字)。昨年の春、井川さんの遺作『モグとユウヒの冒険』を本にした、その制作時に連絡したら「話しましょう!」と返事が来て、3時間を超えるロング・インタビューが行われた。いや、インタビューと言えるかどうか、私が何も問わずとも富田さんは延々と話してくれた。井川拓の話をするということは、富田さん自身の若い頃、映画をつくり始めた頃の話をすることになる。話は徐々に、映像制作集団「空族」の誕生秘話にもなってゆく。『雲の上』の前に撮影され、未完に終わった『エリコへ下る道』がどんな映画だったのかも、ようやく聞くことができて嬉しかった。
RTさんの「ここにいること」は、「心がぴったりとついてこない」と感じるこどもが大人になり、さまざまな時間を経て「人の為に何かしたい」と思うまでになる経緯を書いたエッセイ。経済活動から少し離れたところで営まれている活動に、救われる人の話でもある。「鬱」ということへの言及と、空を眺めているところなど、「自然を感知した人」に通じる要素が幾つもあり、並べて載せることにした。
〆は犬飼愛生さんのエッセイ「相当なアソートassort」シリーズの今回はその2で、銀行で起きたある事件について書かれた「通帳持って」。元のバージョンはもう少し長かったのだが、最終的には前回と同じくらいの長さになった。話をしつこく延ばしてゆくことによって生まれる笑いと、文章を削って短く切ることによって生まれる笑いがあるよねえと話して、このシリーズでは削る方に向かった。犬飼さんのエッセイ集『それでもやっぱりドロンゲーム』を開いて、「キレイなオバサン、普通のオバサン」を読めば、その逆のパターンがわかるはず。
執筆者などを紹介するページや、五里霧中になっているページを経て、最終ページは編集後記だ。後記をエッセイにしたのは、’00年代の一時期、その頃『VIKING』の若き編集人だった日沖直也さんが書いていた編集後記を毎月読んで、いいなあと思っていたからで、『アフリカ』の編集後記はレイアウトも含めそれの真似だ。今回は『WSマガジン』のことを中心に書き、その流れで『水牛』のことにも少し触れた。
完成したばかりなので、まだ売るのもこれから、読まれるのもこれから。しかし『アフリカ』を仕上げた後はいつも、どこか不安で、つくっている最中ほど楽しくはない。けれど、読んでもらわないとね。と思っていたら、常連の読者の方々がさっそく入手して読んで、SNSで語っているのが目に入る。聞いていると、書き手よりも書き手のことがよくわかっているようで、心強い。文芸の創作ワークショップでは作家が育つのではない、まず読者が育つのだ、と考えた20数年前のことが思い出された。