『アフリカ』を続けて(27)

下窪俊哉

 この夏は『アフリカ』をまたやろうと思っている間に過ぎた。しかし例によって夏の暑さは、もうしばらく続くらしい。まだ夏は過ぎ去ってはいないというふうに考えよう。そうやって自分がたいして動いていなくても原稿はぽつり、ぽつりと届くのだが、届くといつも嬉しい。原稿が添付されたメールを見て、おおー! と声を上げてしまうこともよくある。この歓びに代えられるものが他にあるだろうかとまで思っているのだが、これは一体何なのか。

 やろうと考えて、出来ないことは多い。私はいつの頃からか、何かを考え始めるとアイデアがどんどん湧いてくるようになった。『アフリカ』を始めた20代の頃は、でも全然そんなふうではなく、いろんなことを全て困難なことのように感じていた。出来るかどうかを先に考えるから、せっかく生まれようとしているアイデアが元気をなくしてしまうのだ。出来るか出来ないかはアイデアとは関係がない、好き勝手に考えてみよう、とすれば、アイデアは元気よくどんどん生まれてきてくれる。しかしそれを実行に移すかどうか、というのは別問題だ。
 例えば今年の春頃、休止して1年以上たった「道草の家の文章教室」を再び、一回だけ復活させようと考えていた。名付けて、道草の家の文章教室・最終回! いきなり最終回をやろうというアイデアに、ひとりでウケて、しばらく愉しんだ結果、それで満足してしまい、実際にやろうとはしなかった。
 そんなふうなアイデアは日々頭の中にあり、他人に話すこともあって、自分は企画倒れの名人だな! と思う。
 とはいえ、2010年代には、”プライベート・プレス”をめぐるトークイベントや文章教室、よむ会(読書会)など、実際にからだを動かして行った企画もいろいろとあった。
『アフリカ』はそういったことの何をやっても、終わったら帰ってくる場所であり、ベースキャンプのようだと言えばどうだろうか。うまくゆくこと、ゆかないこと、何があっても『アフリカ』に戻ってきて、さあ、また次のことをやろう、と考えることが出来る。
 それにしても、ベースキャンプが、なぜ雑誌のかたちになったんだろう。いや、そうじゃなくて、雑誌が先にあり、そこが次第に私たちのベースキャンプになったのだ。

 そこにはさまざまな人の訪問があり、出入りがあり、いろいろなやりとりが行われる。

 疎遠になった人たちがいる一方で、新しい出会いも『アフリカ』をやっていると次々あり、その不在と出会いの両方に『アフリカ』が支えられているのを感じる。疎遠になった人たちとも、お互いが元気で生きて暮らしていれば、いつか再会することもあるかもしれない。なくてもいいのだ、元気であれば、とたまに考える。

 この原稿を書いている途中で、向谷陽子さんの訃報が飛び込んできた。『アフリカ』が2006年8月にスタートして以来、これまで17年間、その表紙にはいつも、向谷さんの切り絵があった。事故に遭い、急逝されたとのこと。私とは大阪で大学時代に知り合い、とくに20代の前半には深い付き合いをしたが、大学卒業後は故郷の広島に戻って暮らしていた。個人的にひっそりと『アフリカ』を始めることになった頃、たまたま彼女から手紙が来て、パッとひらめいたのだった。この人がいつも私や友人たちに贈っている切り絵を、表紙につかいたい、というより、そうしなければならない、と。
 突然やってきた巨大な悲しみと喪失感のなかで、いま、『アフリカ』最新号の表紙にいる羊の切り絵と、向かい合っている。その対話を、私は言葉にすることが出来ない。