『アフリカ』を続けて(34)

下窪俊哉

 先月、20年ぶりの広島滞在に向けて新横浜から新幹線に乗り、高速で流れゆく風景をボンヤリ見ていたら、前夜から降り続いていた冷たい雨が上がり、野山や、街や、海に光が満ちた。そのときにふと、ひらめいた。向谷陽子さんの急逝から半年、ようやく会いにゆくところなのだが、たぶんもう再会しているようなものだったのだろう、『アフリカ』次号の表紙を、どうすればいいのか、急にわかったのだ。たぶんもうこれでゆくだろうけれど、広島と岡山で相談して、決めようと思った。

 広島では向谷さんの実家と墓を訪ねて、彼女の家族とゆっくり話し、行方不明になっている切り絵の捜索継続をお願いするとともに、今後のことを相談した。彼女の夫には、事故現場まで案内してもらった。隕石に当たって亡くなったようなものじゃないか、と話したような気がする。あるいは後でそう考えたのだったか、暗い夢の中を歩いているようだった。
 広島では風景が悲しみの色に染まっているようだったが、翌日、岡山へ行くとその色は消えた。そこに思い出と言えるようなものが何もないからだろうと思った。守安涼くんとも12年ぶりに会い、成田家という居酒屋に案内してもらって、積もり積もった話に花を咲かせた。
『アフリカ』はようするにメールと郵便を使って続けているので普段、実際には会っていないのである。
 さらに翌日は、「おかやま表町ブックストリート」の一箱古本市に守安くんが出店して、『アフリカ』も売るというので手伝うことになっていた。一緒に売るというのは初めてのことだったかもしれない。
 準備中、「ステージ・トークに出て『アフリカ』の話をしてほしいって言われてるんだけど」と彼が言うので、それも楽しいね、守安流のユーモアだな、と思って受け流した。しかし楽しく売る手伝いをしていたら、スタッフが来て「そろそろお願いします」と言う。おいおい、本当の話だったの? というわけで、451ブックス店主で瀬戸内ブッククルーズ実行委員会代表の根木慶太郎さんと、守安くんの勤務先である吉備人(きびと)出版の代表・山川隆之さんからいろいろと聞いてもらって、ふたりで『アフリカ』の話をした。
 トークを終えて、ブースに戻ろうとしていたら、向こうから駆け寄ってくる女性が目に入ってきた。おおー! と思わず声をあげてしまう。『アフリカ』を始めるきっかけとなった「越境」の神原敦子さんと、15年ぶりに再会した瞬間だった。

 前回の続きで、2006年8月に『アフリカ』が誕生するまでに何があったかを、手元に残っているノートや手紙から探りつつ、書いてみよう。

 2005年末に『アフリカ』という名前の雑誌をつくることを決めて、年明けにゆっくり動き出した。同時に失業したので、失業給付を貰いながら就職活動をしながらのことであり、動き出すと言っても、向谷さんに切り絵をお願いした以外は、とくに何をしたというわけでもなさそうだ。1月後半の記述に、「『アフリカ』は春までに原稿を集めて、夏にできる、といちおうの予定をたてる。仕事次第でどうなるか分からないけれど。」とある。
 これからどうやって生きてゆくのか、何も決まっていない状況で、引き篭もっていたわけではなく人にはよく会っている。自分は苦しい状況になればなるほど、外へ出てゆく傾向にある。頼りにしたのは、大阪芸大時代の仲間や、吃音のセルフヘルプグループをめぐる仲間のようである。
 大学の研究室に残っていた後輩の片山絢也くんが3号限定でつくった個人誌『初日』には、私は3冊ともに寄稿している。まず2005年6月の『初日1』には「吃音をうけとめる」を書いた。これは京都言友会との出会いを契機として初めて吃音のことを書いたエッセイで、短いものだが、その後の仕事に続く大きな一歩になった。同年10月の『初日2』にも「吃音をうけとめる」の続きを書いたが、2006年1月の『初日3』には『寄港』のことを「本当は書いておきたかったこと」と題して書いて、それまでの総括とした。『初日』は研究室のコピー機を使って刷って手製本した中綴じの冊子で、『初日3』のときは時間があったので製本の手伝いにも行った。後輩たちと会って話す時間が、救いになっていたようだ。
 言友会の仲間たちともよく会っている。何を話していたんだろう。ふり返ってみて気づくことだが『アフリカ』誕生の背景には、セルフヘルプグループを身を以て知ったことからの影響があり、それはもちろん『寄港』にはなかったことだった。
 2月のメモに、こんな記述を見つけた。「吃りを苦にして死へ歩いていく人の話 吃りで何かを苦にするのか、吃りそのものに殉じるのか」とある、よくわからないが、これ以上は発展しなかったメモだろう。
 同時期に言友会の講座を手伝っている。その日の朝のメモからは、こんな記述に注目する。「何のために、何を目指して彼らはやっているのだろう? という疑問は日に日に大きくなってきたが、それなら自分は何を目指して(いろいろなことを)やっているのか。何の目的もなく、ただやっている、というだけだからできるのだろうか?」
 その頃、親しくしていた年上の文学者から、会社勤めが大変で、生きてゆくだけで困難であり、文学を苦痛に感じることもある、という手紙を貰って、共鳴している日記もあった。
 そう言いながらも「世界小説を読む会」には毎回参加していて、2月は『カレーソーセージをめぐるレーナの物語』(ウーヴェ・ティム著、浅井晶子訳)、4月には『雪』(オルハン・パムク著、和久井路子訳)を取り上げている。
 すっかり忘れていたが、高橋悠治さんの文章を初めて読んだのも、この頃のようだ。ノートに「たたかう音楽」からの引用があった。「文学は一人の飢えた子供も救うことはできないが、何百万の飢えた子供たちは文学を救うだろう。それが、きたるべき東風だ。」
 この頃、『初日』に書いていた垣花咲子さんと樽井利和さんを『アフリカ』に誘っている。樽井さんは『寄港』表紙の写真を撮っていた写真家で、よく知っていた。垣花さんとはその当時、よく話していたから、やはり誘いやすい人に声をかけたのだ。もちろん、ふたりが書くものを読んでみたいと思ったからだ。また、それぞれの作風が似ていないというのもよかった。
 2月後半、母方の祖母が亡くなったので帰省して、そのまま鹿児島で数週間を過ごした。体調を崩したのも言い訳にして、故郷での療養という感じにしたのではなかったか。その頃、覚書のような短い雑記(エッセイというか)を立て続けに書いており、それを本にするような構想もあったようだが、たぶん自分のためにつくって持っておくための本だろう。それは、原稿だけが残った。
 その中に、「祖母の死に顔」というエッセイがあった。どこにも発表していない家族の記録だが、いま書き残しておかなければという熱い気持ちで書いてあり、ずっと大切に思っている文章だ。祖母が遺してあった日記帳を見せてもらって、殆どは食べたものと来客の記録だったが、中には短歌のような一文も見つかった。細やかな、つぶやきのようなものだが、それが自分にはものすごく大切なもののように感じられた。
 京都に戻って、いよいよ再就職活動を活発にしたかというと、そうでもないようで、今度は関東方面へ旅している。遊んでばかりという感じがしないでもない。生きてゆくだけで困難と言いつつ、後先を考えない呑気さである。この暇を使って、会いたい人に会いにゆこうということだったんだろう。
 5月になってようやく『アフリカ』用の小説「音のコレクション」に取り掛かった。その創作メモを、ノートの中に見つけることができた。400字×35枚ほど、書き上げるのに1ヶ月はかかっていないが、これだけ暇なのだから、時間のかかった方かもしれない。書きながらものすごく苦しかった記憶がある。これが最後になってもいいと思って、覚悟を決めて書いた。これを書けたことで、書き続けよ、と言われたような気がしたのだった。