話の話 第13話:ぼんやりした話

戸田昌子

ここのところ、なんだか懐かしいような気持ちになっている。つまり、「会いたい人がいる」という感覚だけがはっきりとあって、それでいてそれが誰なのかわからない、という感じ。ただ、その感覚だけが、ある。つまり、もしかしたら、会いたい人にはもう会えているのかもしれない、とも思う。ぼんやりとした記憶の混濁と、感覚の遊離。

そんな時には忘れていたことが、蓋をあけると転げるようにして出てくる。いつかの昔、母が話し始めている。「あなたたちのおじいちゃんは、粉屋さんって言われていたのよ」。こう書いていてすでに嫌な感じである。というのも、母が言うには、「粉屋さんって言っても、小麦粉とかパン粉ってわけじゃなくて。お風呂に入らないから」。ああ、その先は、お母さん、続けないで。しかし、母は続けてしまう。わたしたちの祖父は、あまりにお風呂に入らないため全身がかさかさになってしまっていて、母が言うには、「立つと、歩くと、風が吹くと」、服の袖から裾から、ぽろぽろと粉が落ちるのだ。もちろん家族は迷惑なので、「どうぞお父さん、お風呂へ行ってください」と手をついて平身低頭、お願いする。すると「仕方ねぇな、風呂へ行ってやるか……」と祖父は重い腰を上げる(こともある)。ようやく風呂屋へ行く気になった、と家族は喜びいさんで(当時、長屋だった実家には備え付けの風呂がなかった)、祖父が気を変えないうちにと、洗面器に石鹸やタオルをセットして差し出す。しかし、その至れり尽くせりがわざとらしく感じられてしまうと祖父は、「なんだ、そんなにおれに言うことをきかせたいのか。気が変わった」とつむじを曲げてしまうこともあったそうで、天邪鬼な祖父であった。

「話し始めがぼんやりした人がいてさ」と、今度は夫が話し始めている。「話しているとさ、ずっと“ふりかけアメリカ人”って言ってるんだよ。でもなんのことか分からなくてさ。ほら、むかし、”焼肉フランス人”って店があったじゃない。だから”ふりかけアメリカ人”って店もあるのかなぁと思って聞いていたらね、なんのことはない、”アフリカ系アメリカ人”のことだったんだよね」。こんな話は、聞いているほうもぼんやりしてしまう。

似たような話に、娘がずっと「ボットン便所」のことを「ボストン便所」だと勘違いしていた、というのがある。娘世代には入った経験がほぼ、ないと思われる、汲み取り式便所、通称「ボットン便所」。娘は、ものの話にそんな便所がかつてあったことを伝え聞いて、ボストン発祥のおしゃれな便所だと勘違いしていたそうなのである。ボストンには迷惑な話なのであるが、じっさい、わたしの子ども時代には、田舎に行けばこの方式の便所はたくさんあったし、何を隠そう、田舎に行かずとも東京のわたしの実家はこの汲み取り式便所であった。冬になると、下の方からさらりと薫風が吹き上げるこの風流なトイレが怖くて、わたしは長年、夜中にひとりでトイレに行くことができず、ずっとおねしょをしていたのだった。「ちゃんと起きてトイレに行きなさい」といつも怒られてしまうのだけれど、「夜中にひとりでトイレに行くのが怖いから」という理由を説明することさえできないほど、このころわたしは内気だった。この便所を経験したことのない今の人には、「夜中にひとりでトイレに行くのが怖いからおねしょをしてしまう」という話をしたところで、そのリアリティはわかってはあまりもらえないのではないだろうか。考えると、悶々とする。

そんなふうだから、子どものころは怖いものが多かった。そのためか、奇妙なものを見てしまうことがあり、鬼もお化けも見たことがある。正確に言えば、「見たような気がする」という程度のものではあるのだが。

長屋の2階で、夜、子どもたちばかりで寝ている。夜中、わたしはトイレに行きたくなって目覚める。けれども、ひとりで布団から出ていくことができない。あのふんわりと風が吹き上げるトイレに行くことを想像すると、背筋がひんやりする。しかも眠たい。ああ、どうしよう、と悶々としていると、誰かが階段をとんとんと上がってくる。静かに扉が開く。大人の男の人が入ってくる。おかしい、父は出張で留守のはずだし、大人の男の人がここにいるわけがないのである。その男は押し入れへ向かって歩いて行き、押し入れの襖を開ける。そしてそこに立ちつくしている。そしてなぜが男が振り返る。布団の中から見ているわたしには、その頭に角が2本、突き立っているように見えるのである。どうしよう、鬼を見てしまった。そう思って布団のなかで目を閉じる。ひたすら目を閉じている。いつのまにか眠りに落ちる。そして目覚めると、やはりおねしょをしている。

そんなわけだから、わたしはおねしょ布団というものに寝かされてしまうことになる。そのうちに長屋は建て替えのために取り壊されることになった。だからわたしはそのとき一時的に、東京の西のほう、武蔵境というところに住んでいる。ここには小さいが、「森」が近くにあって、夜はとても静かだ。そしてわたしはいつも端っこに敷かれたおねしょ布団で寝ている。そして夜中、やはり目が覚めてしまう。だから手持ち無沙汰にカーテンを引っぱって、窓の外を見ている。すると、黒い小さな生き物がベランダにいるのが見える。最初は鳥かと思うのだが、鳥にしては形が奇妙で、鳴きもせず、静かにそこに佇んでいる。あれはお化けだ、そう思ったわたしはこらえて目をつぶる。そのうちに眠る。そしてやはりおねしょをしている。

しかし、長年「お化けを見た」と思っていたのは、おそらくは勘違いなのだ。場所柄と、それが深夜だった、ということを勘案すると、それはおそらくコウモリだったのではなかろうか。そこは確かに、夜中にコウモリが飛んでくるようなところだったのだから。

その武蔵境の家は、三階建のアパートメントであった。日曜の朝5時ごろになると、兄が早々に起き出して、玄関のドアを開ける。するとすでに玄関先にはアパートの男の子たちがずらりと整列している。そのただ中に「おう、おはよう」と悠然と出ていく兄。まるでヤクザのお出迎えのようだが、実際その通りなのである。アパートの子どもたちの兄貴分だった兄は、日曜ともなると、いつも子どもたちを連れて遊びに出掛けていた。子どもたちは兄が教えてくれる遊びが楽しみで仕方がなくて、いつも玄関で待ちかまえていた。そんな中、兄は「いくぞ!」と号令をかけて出掛けていく。そして日が落ちるまで帰ってこない。昼飯をどうしていたのかについては、母もさっぱり記憶がないという。

こうした兄の遊びには、わたしら妹たちはめったに付き合わせてもらえなかったが、アパートの庭で遊ぶときだけは一緒に遊んだ。アパートにはまわりをぐるりと木々に囲まれた大きな庭があったから、秋になると枯葉が山のように積もる。その枯葉を掃き掃除をする、という言いつけを、なにかの罰に、兄たちは与えられたのではないだろうか。兄は他の子どもたちに指示して「お前ら枯葉をここに集めろ!」と号令をかける。すると文字通り、子どもの背丈を越えるほどの小山ができる。そこに誰かが家から盗んできたシーツを乗せる。小さな子どもから順に、その上に乗ってよろしい、と兄の許可が出る。順繰りに枯葉のベッドに乗って遊ぶ。そのころ、そこに住んでいた子どもたちの誰一人として、ベッドに寝たことなんてあるわけがなかった。これがあの、夢にまで見た「ベッド」なのだろうか。こんなにふわふわとして幸せな。

そしてその後、妹たちは家に帰るのだが、兄だけはまだ遊んでいる。しまいに母が怒って玄関に鍵をかける。兄が帰ってきても、玄関のドアは開けない。困った兄は、外から家に侵入しようとして、3階建ての社宅の外壁を、雨どいをつたって、3階までも登ってくる。うまいことベランダに侵入した兄だが、今度は部屋に入ろうとして失敗する。ベランダから入ってくるであろうことをすでに予測していた母に、ガラス戸の鍵を閉められてしまっていたのである。しまいに兄はベランダで寝入ってしまう。母はやっとのことでガラス戸の鍵を開け、兄を起こし、顔を拭くように言って雑巾を手渡す。

日曜の朝になると、森を抜けて、父がパンを買いに行く。パン屋は森の向こう側にしかないからである。森のこちら側は、お店などは何もない住宅街である。食べられるものと言えば、森のどんぐりくらいであろうか。しかし、生のどんぐりは、渋くて食べられたものではないのは、すでに何度も試して知っている。

ずっとお腹がすいていた。よく見た夢が、山盛りのお菓子を与えられて、どれから食べようと迷ったあげくに、口に入れる瞬間に目覚めてしまう、というものである。食べたことのない、銀紙とプラスチックに挟まれた、色とりどりの、砂糖でコーティングされたあのチョコレート。あれはどんな味がするのだろう。大人になって、それを食べてみたところで、こんな味だったのか、と納得できるわけもない。あの夢のお菓子は、一体。

そしてどうやらわたしは、夢をみていたのである。玄関に、3人の男が立ち塞がっている。知らない男たちである。外へ出ていくことはできないし、しかたがないので、階段を上がって2階へ登ろうとする。すると階段の最上段に、黒服を着た覆面の男が立っている。わたしはまたそこで困ってしまう。すると、男が「怖いか」と尋ねる。わたしは迷ったあげく「怖い」と答える。すると男は「これは夢だ」と言う。そして男は、「もしこれから怖い夢をみて、目覚めたかったら、」と言う。「まばたきを3回すると、目が覚める」と続ける。「やってみろ」と男は促す。わたしは、まばたきを3回する。そして、目覚める。

それからしばらくは、怖い夢をみたときには、覆面の男に教わったこのおまじないをするようになった。面白いほど確実に、怖い夢から目覚めることができるようになったわたしは、そのうちにおねしょをしなくなった。

そしてわたしはその後、新しく建て替えられた家の窓から何度となく自宅に侵入することになるのだが、それはまた、別の話。