先月、SNSで増井淳さんから鶴見俊輔に「『ヴァイキング』の源流」という文章があると教えてもらったので、図書館で探して読んだ。講演の文字起こしが元になっていて、副題に「『三人』のこと」とある。この「『アフリカ』を続けて」は初回に『VIKING』の話を置いてあり、増井さんはそれを読んでくださったようだった。
『三人』というのは『VIKING』よりもっと前、富士正晴、桑原静雄、野間宏の三人によって1932年に創刊された同人雑誌で、命名は彼らの師匠である詩人・竹内勝太郎だったらしい。それから井口浩が入って四人になっても、その後何人に増えても『三人』は『三人』のままだった。終刊は1942年(大東亜戦争開戦の翌年)の28号で、富士正晴記念館の冊子で読める日沖直也「富士正晴 人と文学」によると「同人誌統合の内務省指示が出されたのに対し、統合は意味がないからと富士がほとんど独断でふみ切った」。
竹内勝太郎は『三人』創刊の3年後、黒部渓谷で足を滑らせて遭難し、40歳で亡くなった。彼の作品が残っているのは、富士さんが師匠の原稿、日記、手紙などを遺族から譲り受け、遺す仕事を殆ど人生をかけて行ったからだ。そのへんのことをじっくり書いていたら長くなるので今回はやめておくけれど、私は編集者としての富士正晴にずっと興味を抱き続けている。
鶴見さんは「『ヴァイキング』の源流」の中で、こう言っている。
師匠そのものは、全然有名ではない。無欲な人で、それはもうはっきりしている。無欲な努力家。この世の中に、無欲な努力家がいるっていうことが光源になって、青年をひきよせている。無欲な努力をまのあたりに見ることは、そりゃあ大変なことですよ。人間みんな欲ばりで、欲の皮つっぱらかして生きてんのさ、ハハハッて、そこでもうすわってしまう。これもひとつの悟りをひらいたことになるんだろうけどね、なーに、かくしてるだけさおんなじだ、なんていう、それも楽でいいけどね。そうではない人間がいるっていうかんじね。そこが光源になっている。
ここで「無欲な人」と言っているのは、何の欲も持たない人がいると言っているのではない。彼はさまざまなことを経て、考え抜いた末に、ある意味ではやむを得ず、そういう生き方を取ったのだと私は思う。富士さんは竹内の死後、『三人』で企画した追悼号で「竹内勝太郎譜」を編むために日記を読み、「彼の苦渋に満ちた一生を知って驚嘆し、ますます、竹内を出版することを自分の責任と感ずるようになった」と書いている(「同人雑誌四十年」より)。鶴見さんは「文化に対する権勢欲から自由なところをつくろうということを、初めから動機としてもっていたから、逆にこれは、それを体現した一人の人間が死んだあとも七年、その生前からかぞえて合計十年続いた」と言う。
権勢欲、つまり文芸やら何やらの業界(文壇、論壇などと言えばよいか)を強く意識して、そのような雑誌をやる人たちもいるのである。というより、何をやるにしても、その権勢欲から自由である人の方が珍しいのかもしれない。
私にもそういう欲があるのだろうか。あるような気もするし、ないような気もする。しかし(いまの、あるいは今後の私にではなく)『アフリカ』と、それを出しているアフリカキカクにはないと断言できそうだ。これまでもくり返し書いてきた通り、『アフリカ』は権勢どころか身近にあった文芸の取り巻きにすら「背を向けて」始めた雑誌だったのだから。
2008年4月、小川国夫さんが亡くなって告別式の前夜祭に参列した際に、山田兼士さんと話していたときに誰かが『アフリカ』の名を出して、「えっ、それは何? 下窪くんがつくってるの?」と驚いたような顔で言われたのを覚えている。私の学生時代にはボードレールや福永武彦を楽しそうに教えてくれたその山田先生が『びーぐる』という詩誌を始めたのはいつだったか、と思って調べたら、その年の秋だったようだ。私はそんな身近にいた人にすら、届けていなかった。
ある歌の文句によると、自由とは、何も失うものがない、ということだそうだ。当時の私は、そんな状況にあり、というよりそんな状況に自分を一度追いやって、『アフリカ』はそれを体現したということになるんだろう。もちろんそこまで考えた末のことではなく、やむを得ず、そうなったということなのだが。
さて、私がどうしてこんなことを毎月くどくどと書いているのかというと、『アフリカ』という雑誌がどうしてこんなに続いているのだろう、という、その謎を探ってみたいからだ。他人事のように言うと、興味があるのである。
いつまでも続けて、自由であることなんて、可能だろうか。鶴見さんの言う「光源」がどんなものであるか、ということが重要なのではないか。
いま『アフリカ』は”大きな再出発”の号からその先へ進もうとしているが、しかし、というか、やはり、というか、思ったようにはゆきそうにない。年3冊のペースでやってゆこうなどと言っていたのも、数ヶ月たてば、様子が変わっている。私はそのことをダメだとは思っていない。予定は、いつでも未定なのだ。いつでも止めていいと思っているし、続けてもいい。未来は、わからない。というより、ここまで予想のつかなかった未来へ来てみて、いまさら予定変更も何もない。
〆切があると書ける(つくれる)という話は、今も昔もよく聞く。〆切があるから書けるのはなぜかというと、現実的な計画が立つからだろうか。見方によっては〆切に遅れたことすら、書き手の背中を押す。”大きな再出発”となったらしい『アフリカ』最新号も、故・向谷陽子さんの家族が展覧会を企画して、それに合わせるかたちで出来た。しかし、私はよくわかっているつもりだが、その後には何ということもない「その後」が続くのである。私は本を、雑誌をつくることをお祭りにしたくない。イベントにしたくない。と、ずっと考えている。ワークショップ(工房)ということばのイメージを好きなのも、そこに流れている時間が日常のもので、続いていると感じられるからだ。そうあってほしいと夢みているのだ。今の時代は日常を夢みることがとても困難になっていると感じる。夢は、じつはとても近いところに転がっていて、私たちを待っているのかもしれない。