しもた屋之噺(273)

杉山洋一

日本は暖かいと聞いていたものの、東京に降り立ってみて思いの外肌寒いのに驚きます。この辺りの街路樹の葉も心なしか色づき始めているようにも感じます。山のあたりなら、もうすっかり燃え立つ紅葉に染まっている頃に違いありません。今月は、数年かけて準備してきた「ローエングリン」の公演があったので、備忘録をかねて、日記を転記してみます。

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10月某日 三軒茶屋自宅
リハーサルの合間、楽屋の明かりを消し、並べたソファーに寝転がって目を閉じると、隣の楽屋から熱心に稽古する橋本さんの声が聞こえてきて、喉を殊更に酷使する作品だから疲れないかしらと心配になった。そのとき、外からカモメの鳴声が聞こえてきて、ふと甦ってくる光景があった。

数年前、パレルモのマッシモ劇場で、イタリアの名優、エンニオ・ファンタスティキーニと「盗まれた言葉」という朗読劇をやった時のこと。ファルコーネとボルセッリーノがマフィアに爆殺された時のさまざまな証言を、ファンタスティキーニはある時は淡々と朗読し、またある時は涙を流しながら演じた。

本番前、となりの部屋の小さな縦型ピアノで、ファンタスティキーニは器用に素朴なラグタイムを弾いていて、そして海辺だから、やはり海鳥が啼いていた。そういえば、シャリーノはパレルモの生まれだった、などと思いを巡らせているうち、眠り込む。素晴らしい舞台だったが、翌年ファンタスティキーニが死んでしまい、到底他の俳優で再演したい、という気持ちにはなれないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。あの時だ、本当に言葉のもつ途方もない力に圧倒されたのは。テレビや映画で見ているファンタスティキーニではなく、舞台上から放たれる信じられないようなエネルギーに、満場の観客もオーケストラも、もちろん指揮者も、酔いしれたものだった。

今日から大ホールに場所を移して、橋本さんとオーケストラ、音楽稽古とそれに続く演出稽古をこなす。音楽稽古の最初一時間ほどかけて、先日と同じように三階から音響のバランスを聴きながら、菊地さんときめ細かい調整をしたのだが、指揮台の矢野君が、舞台の橋本さんと、ピットの成田君率いるオーケストラに手際よく采配をふるう姿に、深く感動していた。家人のところにピアノを習いに来ていたから、彼が高校生だった頃から知っているけれど、本当に立派な音楽家になった。

続いて、自分がピットに入って演奏をリハーサルを始めると、橋本さんが喉で鳴らす音と、舞台の床が軋む音が似ていて一瞬当惑する。喉音は口を噤んだまま出すから、彼女の口元を見ていても分からない。

一場について橋本さんは、17歳で時間が止まったままのエルザと現実の40歳のエルザを、どう合わせてゆこうか考えていると話していて、どちらとも限定せずたゆたって欲しいと伝える。限定的にならず、具体的にならず、説明もしない。観念化せずに、声の色彩だけを変化させてゆくことで、音の様々な可能性が広がる。この数日だけでも橋本さんは声のパレットが物凄く豊かになっていて、その成長ぶりに誰もが目を見張っている。会場の空間と対話しているようにも、遊んでいるようにもみえる。

フルートが吹き上げるジェット・ホイッスルと、橋本さんの声の音域がちょうど一緒で、同時に鳴らすと、フルートの音が全く聴こえなくなる。

夜、本目さんと市村さんに「青葉」に連れて行ってもらい、台湾薬膳料理に舌鼓。美味。

10月某日 三軒茶屋自宅
息子が実技試験で満点を取ったとの連絡あり。何より、本当に気持ちよく演奏出来たらしいから、本人もそれは嬉しいだろう。この夏草津でカニーノさんと過ごした時間の深さを、先月彼が弦楽オーケストラを振る姿からも感じていたが、自分がやりたい音楽の姿勢を見つけつつあるのかも知れない。この先、音楽を続けるかどうかとは関係なく、人生をどう生きたいのか、そのきっかけを見つけてくれたなら、親としてこれ以上の喜びはない。

稽古の後に橋本さんと話す。「四場が好きすぎて、思わず感動しそうになっちゃって。ああ、いけないと気を取り直したりして」。

あまりの感激に、つい自分の裡に埋没しそうになるのだと言う。自身の奥底深く沈みこんでしまうと、その思いは客席に届かなくなるかも知れないが、オーケストラと彼女が互いにしっかり繋がり、共感しあっている限りにおいて、舞台上の社会性が消失することはないだろう。

「せっかく声で色々出来るようになってきたのに、もうすぐ終わりだなんて、とても残念で寂しいです」と仰っていらしたが、四場最後に橋本さんが発する声は、とても素朴でありながら途方もなく感動的で、演奏者誰もが聴き惚れている。橋本さんは、オーケストラの楽器音に触発されて、さまざまな声が湧いてくるようになった、と話していらしたが、それと同時に、オーケストラや合唱も、橋本さんの声に反応して、魔法のように音色が変化した。

「殆ど光って、かすかに」と嚙みしめるように呟いた後、「殆ど光ってかすかに、あああそこに…、そこに」、と眩しさの中心に吸い込まれそうになりながら、でも決然と発する声を聞くたび、いつも鳥肌が立つ。あの場面で今日の成田君たちが紡ぎだした弦楽器の音は、きらきらと耀いていた。初めは遠くからかそけく指の間を滑り落ちるような光が輝く砂のようでありながら、呆気にとられて見つめる我々は目の前の燦然たる光源が吞み込んでゆく。

闇に向かって語る、「静かすぎる」という彼女の沈黙の深さに、誰もが圧倒されている。「エルザ?」と呼びかけられ答える弦楽器の音が、いつも少しずつ違う音がしていて、舞台上のエルザとオーケストラは、あたかも目の前で同じ映像を眺めているようである。

リハーサル後、真野さんと中野さんと矢野君と連立って、天王町「タヴェルナ・クアトロ」にて演劇話。確か四月終わり、大学入学後すぐに企画した校内演奏会で、新垣君と成沢君と三人でピアノを叩いたり擦ったりする傍らで桐朋演劇科の女優3人に30分間喘いでもらって、満員の会場でブソッティ「Per Tre」を演奏した話など。気分を悪くした女学生数名発生。シチリア風鯛の姿蒸しが大層美味であった。

10月某日 三軒茶屋自宅
橋本さんは、ご自身とシャリーノの世界を音の宇宙を介してつなごうとしている。彼女自身が翼を身に纏ったおおとりとなって、空に翔けだす姿を見るよう。

オーケストラと舞台上の彼女をつなぐ糸は、本番を通して寸時も途切れも弛みもなくぴんと張ったまま、心地良い緊張で我々を支えていたが、同時に橋本さんは何かを突き抜けすっかり自由な表現にまで到達していて、深い感銘を受ける。

「瓦礫のある風景」は、一音も聴き洩らすまいとする聴き手の張りつめた耳が、我々演奏者の感覚をより鋭敏に、鮮烈にすらしてゆく。シャリーノが、「自分の音楽は日本の伝統文化と相通じる感覚があって、それが日本の演奏家や聴き手と良い相互作用をもたらしてくれたら嬉しい」と話していたのを思い出した。

橋本さんより、関係者全員に「初日祝」と書かれたお弁当が振舞われた。すだちとみょうがで漬けた鯖の塩焼き、カニクリームコロッケなど、どれも本当に美味しい。

夜、録音をシャリーノに送った。

演奏会後、矢野君ご夫妻と県民ホール裏Pozziで夕食。遅ればせながら、ささやかなお二人の結婚祝でもある。お二人と一緒に食事するのは、Covidが起きてノヴァラで皆と食事して以来ではなかったか。イタリアに留学してきたばかりの頃、ちょこんと二人並んで聴覚訓練の授業を受けていた頃を思い出し、感慨に耽る。

10月某日 三軒茶屋自宅
緊張のせいか朝早くに目が覚めてしまい、早速シャリーノからのメッセージを確認する。
「ローエングリン、最初から最後まで全部聴きました。今まで聴いてきたものとはまるでちがう。これ自身の姿が在るべきしっかりした形を持っていて、それは驚異的でもあり、目から鱗が落ちるようだった。自分が想像していたものを遥かに超える日本語が持つ力に、心の底から魅了されてしまった。今はヴェニスのホテルに滞在中で携帯電話で聴いただけだから、落ち着いてちゃんと聴きたいところだけれど。ちょっと確認したかったのは、鉄板を震わせる音が携帯電話で聴くと消えているように聞こえるんだよね。これはおそらく携帯電話のせいかな。君の演奏解釈(例えば声、これはびっくりするくらい自分にとっては美しい)には惹きこまれたし、魅了されたよ。3場のクラリネットなんだが、より遅いトリルで演奏できれば、思いもかけなかった声とクラリネットの交り具合や、音楽の連続性も生まれるかも知れないから試してみて…。なんて拍手喝采なんだ! ともかく携帯電話なんかではなく、早くちゃんと聴きたい。本当に心を奪われる演奏で、自分が書いたオペラを再発見した思いだ。女優は実に素晴らしい。そして、演奏者全員、誰もが本当に素晴らしい。本当に満たされたよ。いつもより長くかかっている演奏時間も、オペラをより大きな次元へ紡ぎ直してくれている。おやすみなさい。深く感謝しています。いつまでも」。

本番前のサウンド・チェックの始まりに、演奏者にシャリーノの言葉と感謝を伝えた。橋本さんの表情も少し和らいで、発する言葉には確信が漲っていたのも当然だろう。出番まで楽屋で眠り込んでいたので、舞台に出る直前大平さんに「寝癖がついてますよ」と声をかけられ、直してもらう。実際、橋本さんは二日目の公演で、一日目を遥かに超える表現の幅を実現していた。初めて彼女とリハーサルをした時から、彼女が我々の想像を凌駕する地点へ到達する直感はあったけれど、その予想以上に大きく化けて見事に成し遂げられたと思う。

四場、成田君初めオーケストラの音が、聴いたこともないほど、信じられないほど、美しく切なく、切々と心に沁みた。後で聞くと、橋本さんはあの瞬間、あのビロードのような音に思わず泣きそうになり、「ああ、ここで感情移入してはいけない、最後までやりきらなきゃ」、と気を取り直したと言っていた。あの音は成田君、百留君、東条さん、笹沼君が、そっと弾きだすところだけれど、彼らも涙がこぼれそうだったと話していたから、舞台上の橋本さんとピットのオーケストラは本当に繋がっていたのだろう。

終演後、矢代若葉さんと話しているとき、橋本さんに、ぜひ「火刑台上のジャンヌダルク」を演じてほしい、そう伝えてほしいと熱心にお願いされた。全く同じことを暫く前から思っていたのだが、よもや演奏会直後に、初めてお目にかかる矢代若葉さんの口から聞くとは思わなかった。恥ずかしながら、秋雄先生こそが「火刑台」日本語翻訳を手掛けていらしたのも若葉さんに伺うまで知らなかった。「神の娘ジャンヌ、さあ行くのよ」「ああわたし、遂にこの鎖を断ち切りました!」、と燃え盛る炎の上で絶叫するジャンヌを、橋本さんが演じたらさぞ素晴らしいだろうと、多くの人が彼女の舞台を見て思ったに違いない。

それだけ、彼女の発した声には人の心と魂が宿っていた。エルザが完全に現実の世界に別れを告げるとき、彼女の声は音のなかに溶解してゆく。彼女が誰に向かってその別れを告げているのか上手く書けないが、音から染み出す気体状の何かと、彼女の言葉、息が混じり合い、ホログラムのようにそこに姿が浮かび上がるのを見た。それは確かに烈火から立ち昇るジャンヌの宗教的法悦にも、どこか通じるものがあったのかも知れない。

10月某日 三軒茶屋自宅
北千住の芸大校舎で、長谷川将山さんの「望潮」を聴く。一度通して聴かせていただいた所、素晴らしい演奏で特に注文をつけたい箇所もなかったので、敢えて特に決めた通りにやらず、即興的に演奏してもらう。すると突然、能の「融」の舞台が目の前に現れる錯覚を覚えるではないか。シテとワキの立ち振る舞いだけでなく、囃子方の表情まで見えるようである。書いてある音符が見えるような演奏より、むしろその音を吹いている長谷川さんの音楽が聴きたいのだから、音符が見えなければ見えない程よいと伝える。予めフレーズを決めずに演奏すると、音楽が断片化するどころか、瞬間ごとに耳を研ぎ澄ませて次の音を聴こうとしているから、音楽がより鮮明になるようだ。音が置かれる空間がより三次元的広がりを持って感じられて、遠近感を伴って事象を浮かび上がらせる。尺八とは素晴らしい楽器だとおもう。

吉田純子さんは、先日のローエングリンで、演者と指揮者を「居合のよう」と形容していらしたが、尺八のように深い空間性をもっている楽器では、「居合」を一人で表現するように感じられる瞬間すらあった。一柳慧さん三回忌。

10月某日 ミラノ自宅
「火刑台上のジャンヌダルク」というと、ガヴァッツェーニがナポリのサンカルロ劇場を指揮し、イングリッド・バーグマンがジャンヌを演じた名演が記憶に残る。あの”Giovanna d’arco al rogo”という Fonit Cetraのレコードを買ったのは大学に入ってからだったか。当時イタリア語は殆ど分からなかったが、原語のフランス語の響きに慣れた耳には、ヴェルディとオネゲルが合わさったようで最初は慣れなかった。ただ暫く聴いているうち、イングリッド・バーグマンの素晴らしさに惹きこまれて、いつしかすっかり虜になった。随分後になって、バーグマンが流暢なイタリア語で答えているRAIのインタビューの存在を知った。

バーグマンはスウェーデンの小学校でジャンヌ・ダルクの物語を知った時から、ジャンヌにすっかり魅了されていて、その後演劇を学んでいた間も、その後アメリカに渡ってからも、周りに「自分はジャンヌ・ダルクがやりたい」と熱心に訴えつづけた。しかし当時は、あんな悲しい話は今は流行らない、結末だって悲しすぎると断れ続けながらも、7年後、ジャンヌ・ダルクを演ずる俳優役としてブロードウェイでマクスウェル・アンダーソンの戯曲「ロレーンのジョーン」に主演すると、これが大成功した。それを期に一気にジャンヌ・ダルクが流行り出したので、直ぐにヴィクター・フレミングが映画化したという。オネゲル「火刑台上」は録音を聴いたことがあって、その時から曲は好きだったが、ジャンヌ・ダルク公演1年前、バーグマンの夫ロッセリーニがナポリでオペラ演出の仕事をしていた折、サンカルロの劇場支配人から、何かここでやらないかと提案を受けた。「やらないかって、一体何をです。わたしは歌えませんし、と答えましたら、『火刑台上のジャンヌダルクです』って言われましてね…」。

10月某日 ミラノ自宅
拙宅から徒歩10分ほどのところにある、フラッティーニ広場に地下鉄が通った。もう長い間工事が続いていて、予定を4年だか5年遅くなりつつ完成。この地下鉄が出来るころには、きっと我々はミラノに住んでいないね、などと家族で話していたが、相変わらず同じ場所に暮らしていて、まるで以前からあったかのように、ごく当たり前に日常に溶け込んでゆき、息子は、この地下鉄新線で国立音楽院まで簡単に出かけられるようになったと喜んでいる。
国鉄サンクリストーフォロの鄙びた駅舎だけは残っているが、その地下は見違えるようにモダンな地下鉄駅がどこまでも広がっていて妙な感じだが、何より、地下道で用水路の対岸に出られるようになったのは画期的だ。開通式を開いたばかりで、駅ではバンド演奏などの催しが開かれていて、近所の住人と思しき老若男女が連立って、嬉しそうに駅の方へ歩いてゆくさまは、何だかフェリーニ映画のワンシーンのようだ。

ところで、家人が走ろうとするとき、不思議なことに何故か身体を左右に振り、どてどてと少しアヒルにも似た仕草になるのは昔から知っていた。家人自身そう言っていたし、長い間よほど彼女は不器用なのだろうと思っていた。子供の頃から、運動会でも決まって足が遅かったと聞いていたせいかも知れない。
つい数か月前のこと、家人が股関節を痛めてミラノでレントゲンを撮ったことで、股関節の丸い軟骨の先を安定させる、円盤状の関節唇が生まれつき少々欠けていて、可動域に制限があることが分かった。だから、あんな不思議な走り方になっていたのである。それを知って以来、彼女が凄い形相で走る姿を思い起こすたび、何とも切なく愛おしく感じられるようになった。サンクリストーフォロ駅に向かって楽しそうに歩く、慎ましいアラブ人家族の微笑ましい姿を見ながら、ふとそんなことを思い出す。

10月某日 ミラノ自宅
朝、シャリーノよりメッセージ。
S:「春の雨、まだいるの?」こんなタイトル、アイデア、お前はどう思うかい。
Y: 五月末か六月初めの日本の梅雨を思い出すかな。すごく詩的だし、親近感も覚えるね。
S:「春雨や…」で、はじまる俳句を思い出すな。
Y: すごい記憶力だね。芭蕉も「春雨や」ではじまる句を残している。
「春雨や 蜂の巣つたう 屋根の漏り」「春雨や 蓑吹きかえす 川柳」。どれも美しいよね。
S: サラサラというこの雨音が近づいてくると、耳の内側で血液がめぐるジーという音をもたらすのさ。

10月某日 ミラノ自宅
ノヴァラで息子の演奏を聴く。バッハのハ短調トッカータ、ウェーバーのソナタ2番、それにマルトゥッチが編曲したイドメネオ曲中のガヴォットと「アレグロ・バルバロ」。暫く日本にいて、彼のピアノを聴いていなかったせいか、彼がこんな風に弾けるとは想像もしていなかったから愕いた、というのが率直な感想。10月最初の指揮のレッスンに、モーツァルトの「リンツ」を持ってきた時も、音の質感は以前より充実したと思ったし、音を豊かに歌うことに対して、てらいがなくなった気がしていた。それに関しては、先月ロッポロで弦楽オーケストラと数日過ごしたのが良かったのかもしれないが、しかしノヴァラで聴いた息子のバッハは、明らかにカニーノの響きに少しでも近づきたいと、自らの音に対してひたむきに耳を傾ける姿そのものだった。確かに彼の裡で何かが変わりつつあるのかもしれないし、むしろ自分が欲しているものが、少しずつ見えてきているような印象も受ける。尤も、夏前ごろから彼は定期的にヤクルトを飲むようになったから、案外それが功を奏しているのかもしれないが。

ヤヒア・シンワル殺害。死亡時の映像をSNSで世界中に公開。敵将の首を殊更自慢したいのは、古今東西変わらない。

10月某日 ミラノ自宅
シャリーノが来月日本へゆくので、ここ暫く彼から携帯電話のショートメッセージが届く頻度が高い。朝4時くらいに届くメッセージには、これから仕事を始めるところだ、と書いてあり、6時くらいに届くメッセージには、最初の休憩を取っているところだ、とある。今朝は、朝8時くらいに電話がかかって来て、こちらがちょうど口にタラーリを頬張っているところで、我ながらお菓子を頬張るサザエさんのような声だと笑ってしまった。昨日彼に書き送った来月の東京でのイヴェント紹介文の添削に、わざわざ電話をくれたのである。

「ラテン語起源」と書いたのを、「後期ラテン語起源」に直し、要らない定冠詞を一つ削り、apprendimento(理解) と書くべきところを、慌ててapprensioneと書いたのを直してくれた。apprensione は古イタリア語では理解を意味することもあったが、現在ではほぼ「懊悩」の意味でしか用いられない。しかし、我ながらなぜapprensioneなんて書いたのだろう。

「率直に言うけれど、この文章にはびっくりしたよ。勿論いい意味でね。お前はこれからもっとイタリア語で文章を書くべきだ。こればかりは強く勧めたいね。謙遜なんかしなくていい。今回ばかりは素直に年長者の言葉に耳を傾けなさい。少し頑張って言葉を選んだでしょう。そこが素晴らしいんだよ。そうやってほんの少し背伸びしながら、文章は育ってゆく」。

まさかそんな事を言われるとは夢にも想像もしていなかったので、面映ゆいことこの上なかったが、思えば、イタリア語は普段、学校や仕事の伝達事項程度にしか使っていない。これだけ美しく豊かな言語なのだから、実に勿体ない気もする。

シャリーノ「一通の手紙と六つの唄」の歌詞は、それぞれ原文に則ってシャリーノがイタリア語で書き直している。例えば一曲目の「手紙」は、主人公が三人称の「女」として綴られている和泉式部日記の一節を、和泉式部自身の言葉「わたし」として書き下していて、和泉式部/サルヴァトーレ・シャリーノ訳 と記してある。シャリーノが読み解いた日本語を、あらためて日本語に訳そうとしているわけだが、それは和泉式部の言葉であって、そうではなく、確かにシャリーノの言葉にも感じられる。ただ、我々が信じている和泉式部像こそが正しいかどうかも分からないし、案外、実際にはシャリーノが和泉式部日記の裡に自らを滑り込ませて書いた文章の方が、本来の和泉式部に近いことだってあるかもしれない。

今回、「ローエングリン」を普段演奏されないような巨大な会場で演奏し、細部をつぶさに検証することで詳らかになった沢山のことがある。シャリーノの音楽をこう弾くべき、という先入観そのものを、先ず自分自身が拭い去る必要があると思ったし、その先に見えてくる、全く新しい世界観に目を向けるべきだとも思う。

演技という視点から音楽を見つめることで、本来の音楽の本質に気づく切掛けにもなった。俳優がオペラで演技するのと、歌手がオペラで演技するのを比較すれば、俳優には未だこれから様々な可能性が残されているともいえる。

逆に言えば、「一通の手紙…」を、薬師寺さんという歌手と演奏するにあたり、何を大切にすべきかをも教えてくれるだろう。吉田さんがいみじくも「居合」と表現した、極端に研ぎ澄まされた静と動の世界、それを一歩離れて俯瞰すれば、能などに通じる精神性かもしれない。自分が日本人だからか、そうした視点で初めからシャリーノの音楽を読み下すと、軽薄になりそうな気がして抵抗があった。しかし、今回の「ローエングリン」の体験を通して、自分が日本人だ、という先入観こそ、驕りに繋がりかねないとも知った。
和泉式部の「一通の手紙…」を夢幻能の世界観を通してみつめれば、そこには一体どんな世界が広がるのだろう。

イスラエル政府、ガザの国連パレスチナ難民救済事業の活動停止命令。二日前の爆撃で少なくとも60人死亡との報道が、今日は少なくとも93人、と訂正されていた。

北朝鮮軍兵士一万人をクルスク州に派兵。ウクライナ本土に投入されたとの報道も、既にウクライナ軍と戦火を交えたとの報道もある。現在まで首の皮一枚で繋がっていた東アジアの均衡はどうなるのか。

(10月31日三軒茶屋自宅)