仲俣暁生さんの『もなかと羊羹』を読んだところだ。サブタイトルに「あるいはいかにして私は出版の未来を心配するのをやめて軽出版者になったか。」とある。文庫サイズで44ページの薄い本で、仲俣さんの個人出版プロジェクト「破船房」から出ている。この連載の(38)で触れた「軽出版者宣言」を冒頭に置いて、そこに至るまでの経緯と、「自分で企画し、自分でつくったものを自分で売る」ことがいまの時代、どうなっているかを解説してある。
それを読みながら、ウェブ上の各種サービスが洗練されてきた、という要因を外しては考えられないのだ、とあらためて考えた。
簡単に言うと、いまはパソコンでデータをつくれば、ウェブで入稿して印刷・製本することが出来て、ウェブで売れる。
それに加え最近は、文学フリマをはじめとする即売会も盛んになってきたし、シェア型書店で自分の棚を持ち売ることも出来る。独立系書店も増えてきた(らしい)ので、営業に出て直卸で売ってもらうことも出来る。しかし地方によっては、状況は多少違うかもしれない。
私は即売会には滅多に行かず(出ず)、書店にかんする昨今の傾向にも疎いので、ピンとこないところもあるが、噂に聞いて知ってはいる。いまは横浜に住んでいて東京で仕事をしているので、そのような環境には恵まれているのかもしれないが、『アフリカ』を始めた頃(18年前)に文学やら出版やらの業界からは距離を取ろうと決めて以来、いまはまだ、相変わらず離れたままである。
しかし、ウェブ上のコミュニケーションについては、そんなふうに他人事のように考えることが出来ない。
とくにSNSは、必要不可欠なものになった。何よりTwitterの存在が大きい(いまは名前が変わったそうだが、中身はTwitterである)。「水牛」の八巻さんからも、そこで声をかけられたのだから。なぜかわからないが、そして良くも悪くもということになるだろうが、不思議な力が働いているのを感じる。
いま私のやっていることは、主にSNSによって知られている、と言えるだろう。SNSが入り口になって、いろんな場所への案内人の役割を果たしてくれてもいる。
数年前のコロナ騒動の頃には、こうも考えた。これからはウェブ上に拠点を持ち、どこからでもアクセス出来る、というふうにしてゆけばよいのだ、と。
しかしそういった営みの先につくっているものは印刷して、製本された、いわゆる「本」なのだ。それはウェブ上には存在しない。各々の手元に届けられるモノだ。
ところで、「知られる」ということが、すぐに「売れる」にはつながらない。『もなかと羊羹』にもそう書かれてあり、仲俣さんによる試行錯誤の様子も少し紹介されている。
工夫すれば、それなりに稼ぐことも出来そうだ(本業にはならない)が、それはひとりでやる場合であって、アフリカキカクのように人が集まってやるというのでは、制作費+αくらいにしかならないというのが正直なところだ。
それでも、自分(たち)の本は自分(たち)でつくりたい。なぜなら、そこでは自分(たち)のやりたいように出来るから。
この連載の(6)に、ビル・ヘンダースンという人のエピソードが出てきていた。彼が図書館で調べてわかったように、いまではとても有名な作家たちの中にも、自分の本を自分でつくって出してきた人がたくさんいるのである。何も遠慮することはない。
そんなふうに言うと、大げさかもしれない。自分にとっては、ひとり遊びに近いことだというふうにも感じているから。ひとり遊びなのに、他人を巻き込んでやっているのだから、よくわからない気もする。
戸田昌子さんは先日、『アフリカ』に書くことを「サークル活動」と言っていた。なるほど、そんな感じかもしれないな、と思う。その戸田さんは昨年、初めて『アフリカ』に書いた後に、こんな感想を寄せてくれた。
たぶんわたしは、道草さんの文章を読んだ時も、そしてなつめさんの文章を読んだときも、お金をもらってものを書くことにちょっと飽いていて、そして仕事というものの幅の狭さにきっと、イライラしていたのだと思う。だから「書く必然性がある」のに、「求められて」書いているわけではないような、ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで、一定のテンポを刻みながら書いている人たちの存在を強く意識した。そのころから『アフリカ』に書きたい、という思いが、わたしのなかにふわっと生まれてきていた気がするのです。
道草さんというのは私のことで、ここで言われているのはブログの文章のこと。なつめさんの文章というのは、『アフリカ』vol.34の巻頭に載っている「ペンネームが決まる」のことだ。「ちょっと途方に暮れるような自由さのなかで」というくだりを読みながら、何度読んでも、心が震えるのを感じる。この文章は、もう少し続けて引用させてもらおう。
わたしは、文章を書くことをなりわいにしていて、文章を書くテクニックもタクティックもそれなりに持っていて、それゆえに人に感嘆されようが、けなされようが、屁とも思わないような鋼の精神も持っている。なのに、というか、だから、というか、しかも、そのことにすら飽いていました。それでいて、書きたいことを書きたいように書いてください、と言われたとしても、ほんとうにそんなふうに「自由に」書ける場があったためしはなかったのです。
『アフリカ』が自由だということは、以前からよく言われている。私の書く文章が自由だと言われたこともあったが、それとこれが、関係しているのかどうかは知らない。書くことも、雑誌や本をつくるのも、自分のやりたいようにやりたいとは思っているようだ。自分のことを「ようだ」なんて言うのはおかしいかもしれないが、そんなふうで、それを実現させるには、おそらく編集者になる必要があった。
自分の中に編集室をつくったのである。そこに入ると編集者になれる、そんな小部屋を。これはいわゆる職業としての編集者とは、ちょっと違うかもしれない。
そこは、何というか、いつでも空っぽの部屋なのだ。空間だけがあり、何もない。そこに入ると、いつだって、あとはあなた次第でどうにでもなるんだよ、と言われているような気がする。