『アフリカ』を続けて(46)

下窪俊哉

 先月(3月)は大阪〜岡山への旅に始まり、月末にはこの数年不思議なご縁のある桐生へも旅した。『アフリカ』を始めて、続けていなければ、おそらく出会えなかった人たちとの時間の数々が、どれも印象深いものだった。そのうち、とくに心に残った対話にかんしては、後から思い出してノートに書き出しておいた。ほんとうに聞きたい、話したい、と感じる時、私の耳は録音機能つきになるらしい。その後しばらくはいつでも再生可能になるので、時間を見つけて聞き直して、書き写すことが出来るのである。その一部は『アフリカ』次号に載せられるかもしれない。
 その間、じつはずっと体調を崩してもいた。熱は1日で下がったが、その後に咳と痰が出始めて延々と続き、左耳は聞こえづらくなるし、口内炎が出来て歯茎が腫れたりして、何だか体もだるいので暇があれば横になっていた。それで、「水牛」に書く原稿のために近隣の文学館へ足を運ぶ予定が、叶わなかった。見せてもらおうと思っていたのは、『青銅時代』という同人雑誌の最初の10冊で、1957年6月創刊、発行所は当時、東京の大森にあった小川国夫の自宅だ。

 私は1998年の春に故郷・鹿児島を出て、南河内の大学に入った。大阪芸術大学文芸学科というところで、小川国夫は1990年にそこの教授になっているが、少し前から特別講義などをしに通っていたようである。守安涼くんは小川国夫に会いたくてそこを受験したそうだが、私は知らなかった。興味をもったのは、講談社文芸文庫で復刊された『アポロンの島』が大学の書店にたくさん積まれていたからだ。最初に読んだ時にどう感じたのか、細かいことはもう思い出せないが、よくわからないけれど、いいな、と思った。「よくわからないけれど」というのが大事で、くり返しくり返し読むことが出来たのは、そのせいもあるだろう。
 巻末に「自分の作品について」という自作解説が付いている。『アポロンの島』は小川国夫の最初の本で、『青銅時代』創刊の年の秋に、「青銅時代社」から出版されている。つまり自主制作、私家版である(全く売れなかったとか)。「自分の作品について」は私家版『アポロンの島』のいわばあとがきとして書かれたものだ。その文中に「青銅時代」の名が一度も出てきていないのは意外な気もするけれど、金子博、丹羽正という『青銅時代』創刊同人のことばが出てくるし、創刊号にゲストで詩を寄せた飯島耕一のコメントも記されている。仲間と共にやっている、という感じは濃厚で、それも自分は、いいな、と思っていたのではないか。
 文芸学科では『河南文學』という分厚い雑誌を年1冊発行していた。売ってはいない。欲しい人は合同研究室に連絡するか直接行けば無料で貰える雑誌で、いろんなところに寄贈していた。紀要というのは研究論文集だから、その創作版と呼んだ方がしっくりくる。私が入学した頃には8号まで出ていたのだろうか。創刊号(1991年)の目次を見ると、鈴木六林男、眉村卓、山田幸平、山田兼士、葉山郁生、武谷なおみといった”教員”の原稿と、学生たちの作品がごちゃまぜになって載っている。近藤史恵の名前があるが、学生時代の歌集である(卒業制作だろうか)。小川国夫はシュペルヴィエルの詩の翻訳を寄せているが、これは若い頃に訳して大事にしていたもので、書き下ろしではない。最後に載っている「文学的青春 – 編集後記に代えて」が、その頃に書かれたものということになる。その見開き2ページのエッセイが20歳前後の私はとても気になって、くり返し読んでいた。この文章は随筆集『昼行灯ノート』に収録されたが、ここではあえて『河南文學』のファースト・バージョンから引いてみよう。まずは冒頭。

 今から五年ほど前、私は、ある出版社の勧めもあって、連合赤軍事件をモデルにした小説を書こうと思い立ったことがある。私の住む静岡県の大井川流域と、この事件に関わる人物と舞台がかなり深い結びつきがあったことが、その出版社が私にペンを執ることを勧めた理由だったし、私も取材については見通しがあった。
 しかし私の主な拠り所は別のところに、つまり、同人雑誌活動の思い出にあった。それはまだなまなましく、すぐ近くにわだかまっていた。

 連合赤軍事件と『青銅時代』がどのようにつながるのかというと、同人雑誌内で「議論に次ぐ議論」の末に「憎み合い呪い合う閉塞状況に陥ってしまっていた」からで、その実体験から発想してゆけば事件の「悪魔に魅入られたような心理的葛藤に迫ることができるのではないか」と考えたという。
 実際に書かれはしなかった。今回あらためて読み返してみて、まあ本当に書く気はなかったかな、という気もする。どうしても離れられないのは同人雑誌活動の思い出であって、連合赤軍事件ではない。ただし、小川が小説を『青銅時代』ではなく『南北』『審美』『中央公論』『群像』『文學界』などに発表するようになってゆく頃と同時代なのだろう。そう思って調べてみたら、島尾敏雄が朝日新聞の「一冊の本」で『アポロンの島』を紹介して「彼のものを読むといつも、小説を書く仕事の方に、たのしみをもっておしやられている自分に気がつく」と書いて、世間に知られるようになったのが1965年である。連合赤軍事件は1971年頃だから、5年ほど後だ。ニュースを見ながら、『青銅時代』を思い出さずにいられなかったというようなことはあったかもしれない。
 互いに力になり合おうと思って始めたことなのに、憎み合うことになったのはなぜだろう。「悪霊のように働いたのは、各人の無意識の層に深く喰いこんでいた不安、コンプレックスだったに違いない」という。なのに彼らは「もうやめよう」とか「出直そう」と思うこともなく、続けるのである。その状況を小川は「煉獄」と呼んで、「「地獄」と言いたいほどだが、地獄には希望がない、というのが定義だそうだから」と説明している。その頃を回想して「文学観の名に値する観念を抱くことができたのであろう」とも書いている。また少し引用してみよう。

 夢中で文学を考えた人は誰でも、各人さまざまに実践したにもかかわらず(中には情熱の廃墟へ行きつくような場合があるにもかかわらず)、その誰もが、自分の実践したものが文学だと信じるし、そう信じることは正当なのだ。要は、概念的な文学観はあり得ない、体験によってそれぞれの文学観が創られる、というまっとうな趣旨となる。

 何やら壮絶そうで、近寄りたくないような気がしないでもない。『青銅時代』を構想した創刊者は、じつは小川自身ではなく盟友の丹羽正だったと聞いている。その丹羽は「失明のうき目に遭った」し、小川は(同人雑誌とは関係ない理由もあって)ウイスキーを呷って血を吐いて入院したりした。後には「自殺者が一人、それから自殺かもしれない曖昧な死に方をした者が一人」出た。若い頃の私はそんな話に憧れたのだろうか。
 大事なのは、その不幸な状況から脱したいと願うこと、そんな話に希望を抱いたのかもしれない。脱したいと願わざるを得ない状況があるとも言えるのだが。その「脱出の願い」を「癒えたい気持」と小川は呼んでいる。癒やしということばは、今こそ頻繁に耳にするが、当時はそうではなかったのではないか。「癒えたい気持ほど根源的な希望はない」と書いている。

 不幸から脱出すること、癒えることを理想とした文学者は、自分に固有なこの軌道にひっそりと乗っている(あるいは乗ろうとしている)星のようなものだ。しかしこの星のかたわらには、軌道に乗ることをうけがわず、破滅を急ぐ星もある。その時その星は一きわ光を増すので、私は逃げて行く蛍を掌に収めようとするかのように、空しく手を伸ばしたものだ。そして闇を掴んで悲嘆にくれた悪夢に似た思い出は、もう二十二年も前のことなのに、まだ身近にある。

 1991年の22年前というのは、『青銅時代』に何があった年なのだろう。調べてみたが、わからなかった。ともあれ、久しぶりに再読して、ああ、20数年しかたっていなかったのか、と思った。私は最晩年の小川国夫と付き合って、いつまでも青年のような人だと感じていた。生意気を言うと、自分と感覚の近い人がいるとも感じていた(亡くなった後に聞いたところによると、小川先生も私について似たようなことを言っていたようだ)。だからそのままでゆくと『アフリカ』も『青銅時代』のようになったかも? いや、『アフリカ』の前に数年やった同人雑誌『寄港』を続けたら、そうなっていたかもしれない。『寄港』創刊号が私の編集した最初の雑誌だったが、小川先生からは「いい仕事をしたね」と言われたのを覚えている。突然、「仕事」と言われたのが印象的だった。確かに『寄港』は「煉獄」のようになる可能性を秘めていたと思える。ところが私は、何はさておき生活のために働かなければならなかった。暮らしの必然が私を「煉獄」から逃れさせて、『アフリカ』を生んだというふうにも思えてくる。
 小川国夫が亡くなったのは2008年4月8日、最後に話したのは電話で、その2ヶ月ほど前だった。『アフリカ』を送ると、「相変わらずやってるね」と嬉しそうに言われるのだった。私はザッと50歳下である。お別れに行った際、焼津の海岸まで足を延ばして歩いている時に、「いよいよこれからだな」と思った。その直後の『アフリカ』2008年7月号には、「沈黙のざわめき – 小川国夫という旅」という長い追悼文を書いた。”小川国夫と私”といった内容ではない。そんなのは書いてもいいが発表するものではないと思っていた。小川国夫という人と文学を私はどう受け取ったか。思い切りぶつかって書いておきたかった。