『アフリカ』を続けて(55)

下窪俊哉

 この年末年始は故郷で家族と過ごしている。私が鹿児島で年越しをするのは、じつに27年ぶりだ。夏にこの連載の(49)で家族のことを書いたが、その時は父に悪性の脳腫瘍(膠芽腫)が見つかって、10時間にわたる手術をした。手術の日は母と妹と、11歳の息子も一緒に病院で待っていたのだが、私は待合所のテーブルを借りて、戸田昌子さんの「耳の祝祭」(その後、『アフリカ』vol.37/2025年8月号に掲載することになる)の初稿を鉛筆片手に読み込んだ。その日のことはいつまでも忘れないだろう。
 その小説「耳の祝祭」の中で、ある人がこんなことを言っている。

「覚えておいて。人は、欠如を埋めるためにこそ、すごく大きな力を発揮する。だから傷は、その入り口かもしれないのよ。だから」

 摘出した腫瘍は父の左脳に見つかったもので、言語障害が出たことによって判明した。本人によると、いろんなものを思い浮かべることは出来るのだが、それをことばで言い表すことが出来ない。やがて文字を書くことも、読むことも難しくなった。ただし、今のところ、全く出来なくなったわけではないようだ。
 手術前には、盛んに「しごと」と言うので、何の仕事のことを言ってるのだろうと思っていたのだが、しばらくしてから「あ、手術のことを言っているんだ」と気づいた。「大手術」と言うと悲壮感が漂う(かもしれない)が、「大仕事」と言うとそうでもなかったりして? そう思って観察していると、看護師さんたちと接する父の顔は家族へ向けているそれとは違い、外向けの顔というか、仕事時にはきっとあんな雰囲気だったのだろうと思った。父は、私たち家族は昨年、大きな、大きな「しごと」をした。
 ところで、脳というのは不思議なものらしく、病気をしたのは脳で身体の他の部分は元気なのだから、と当初考えていた私は甘かった。父は術後、しばらくして足が弱り、歩くのが困難になってきていて、いまは脳腫瘍の治療よりその方に気がとられているかもしれない。生き延びているのが凄いことで、ことばが不自由になったのは仕方がないことだと思っているのだが、父はたまに、わからなくなった文字を教えてほしいと言ってくる。わからないものを教えてほしいと言われても、それが何かを察知出来なければ教えようがないのだが、あのー、あれよ、あれ、と言われて聞いていると何となく思いつくことばがあるので、幾つか挙げていると、それ! となる。私が書いて見せると、その文字を見ながら、書き写す。ことばというもの、文字というものも、やはり不思議なものだなあと感じる。よく考えると、よくわからなくなる。たぶん元々よくわからないものだからだろう。

 夏前には、大岡信さんの『あなたに語る日本文学史』を読み始めていた。神奈川近代文学館で開催された「大岡信展」に刺激を受けて、読んでみたいと思った。
 たとえば『アフリカ』最新号、vol.37では日沖直也さん、守安涼くん(と私)とのそれぞれの対話の中で、富士正晴、山田稔、乗代雄介といった作家たちの仕事や証言にも触れつつ「記録」という役割の大きさについて語られているが、「記」とはどんなことばだろう? 大岡さんが簡潔に説明してくれている。

 平安朝において、漢詩漢文時代が数十年あり、その時代に勅撰漢詩集がいくつか作られます。ただ、詩として面白いものではなかった。面白いものはというと、貴族が自分の個人生活を漢詩で書いた、つまり日記です。「記」というのはくだけた文章という意味です。

 この話の流れで大岡さんは、日本文学というのはパブリックなものよりも、プライベートな、小さな分野の方にユニークなものが育っていった、というふうなことを語っている。
 この話はうろ覚えなのだが、晩年の渡辺京二さんがインタビューの中で、中国の人の幸福論について語っているのを聞いた(読んだ)ことがあり、国の政治など大文字の歴史よりも、朝、起きて食べる粥の美味しさの方に人生の真の幸せがあるという。
 確かに、今、私自身も散文をたいへん個人的なもの・ことを表現するジャンルと捉えているし、詩も(つまり歌も)もある程度はそうだと思える。しかし、個人的であるのと同時に大文字の歴史を体現するような作品も世界には存在しているわけで、我が身を振り返って見た時に感じられる政治的な(側面の)弱さについても、いちおう確認しておきたい。
 つまり私はそこに大きな空白を見ている。いや、空白は見えないので、感じている、想像していると言った方がよいかもしれない。何の空白なのか。意味の空白だろうか。実際、書くことの意味を、私はどこまで感じられているだろうか。それを問うこと自体に、困難があると言ってみたい気持ちもある。

 夏前に出合って、読み始めた本がもう1冊あり、それは3月に亡くなった江代充さんの’97年の作品『黒球』だった。この「水牛のように」でも越川道夫さんが江代さんの死と、その後のことを書いていて、私は越川さんの導きによってその本を手にしたと言ってよいだろう。江代さんは詩人だが、この本を詩集と呼ぶことには少し抵抗がある。江代さんは「生活記録」をノートに長年つけていたそうで、越川さんの「テッポウユリのことなど」(「水牛のように」2025年9月号)によると、

江代さんは日日、「日記」と呼ばれるノート稿を書き、そのノート稿を、時を置いて何度も繰り返し「読み改める」ことによって、そこに何らかの「顕現」を見出そうとしていた。それを「詩」として書いた、と言えるかもしれない。

 とのこと。『黒球』という本は、過去の日々の記録を「読み改め」ながら時間を自在に行ったり来たり、進んだり遡ったりして、ひとりの人の中に蓄積された時間と空間が再び立ち現れるのを書き写している。そこに私は(再)編集を見るようでもあり、書き直し(生き直し)を見るようでもある。その書かれた中にある記録はどこか、もう書き手自らのものではなくなっているのかもしれない。

 2025年の私が出合った本として、もう1冊、紹介しておきたい。

 伊藤芳博さんのつくった’95年の詩集をいつか読んでみたい、という気持ちは長年、抱き続けてきた。『アフリカ』でお馴染みの詩人・犬飼愛生さんから最近、その人の名前を聞いたのをきっかけに連絡してみようと思い立ったのだが、今月、1月23日に犬飼さんと伊藤さんはNAgoya BOOK CENTERという書店でトーク・イベントを開くそうだ。
 実は伊藤さんは私の高校1年の時の国語の先生だった人で、なぜかずっと覚えていた。伊藤さんの住む岐阜と鹿児島は、薩摩藩による木曽の宝暦治水工事を記念した交流事業があるのだが、伊藤先生はその年に(だったと思う)鹿児島に来られ、私の進学した高校で数年間教えておられたのだった。
 伊藤先生が詩人であることは、おそらく皆が知っていたと思う。30代半ばの若い先生で、新婚で、お子さんはまだ生まれていなかったかもしれない。そういうプライベートなことも授業中に話す先生だったのだが、ある日、教室に自らの新詩集を携えて入ってきた。その新刊を紹介する話ぶりがあまりにも楽しそうだったので、印象深く覚えていたのだ。その本には2冊の詩集が同居していて、本を裏返し、ひっくり返したらもう1冊を読める。赤い糸だとかムカデがどうとかという長いタイトルだったことも覚えていた。
 思い切って連絡してみたところ、その詩集と、’21年に出された自撰の『伊藤芳博詩集』(砂子屋書房版現代詩人文庫18)を送ってくださった。その2冊を受け取った時の感激は、ちょっとこれまでに味わったことのないものだった。
 30年前の詩集『赤い糸で結ばれていたかもしれないムカデ(について考える二人)/どうしてもやってくる』は、高知市の「ふたば工房」というところから出ていて、奥付によると’95年1月15日発行。ということは、あれは年の初めの、冬の日だったのだろう。その装丁も、構成も、記憶していた通りで本当に懐かしい。その本が今、自分の手元にあるということを奇跡のように感じるのだが、そこに収録されている詩については、さすがに覚えていないだろうと思っていた。
 しかし、詩集を手に取り、本を開いて読んでみると、何ということだろう! 蘇ってきたのだった。
 当時、私はその詩集を借りて読んだわけではなくて、もちろん買ってもいなくて、プリントで配られた記憶もないし、どんな学校だったかを考え合わせてみても、その可能性はほぼない。ということは、教室で伊藤さん自身の声で朗読されるのを聞いたのだろう。私は30年前に、それを耳で受け取った。だから、ありありと思い出す詩がある一方で、全く思い出せない詩もある。朗読された詩だけを受け取ったのだとしたら、当然だ。
 蘇ってきた詩のひとつ「触りがいがないわよ」を今回、帰省して高校時代からの友人と会って飲んでいる時に見せたら、こんな色っぽいところのある詩を、あの高校の教室で朗読したというのがどんな様子だったのか、と不思議そうに言っていた。

 わたしの胸って触りがいがないわよ
 初めて触れたとき
 彼女は言った
 生きがいならあるさって
 僕はつぶやきながら
 やわらかい薄さを手に含んでいた
 けれど 生きがいってのも
 その時々で変わるもので
 ぺちゃんこになってしまった自分の胸に
 今は手を当てている
 触りがいがないよな
 自分の胸なんて

 16歳の私もきっと、内心ドキドキしながらその詩を聴いたに違いないが、今、30年後に読むと、心惹かれるフレーズは別のところにある。

 この道一筋という人間にあまり興味はない
 生きがいも信念も
 男も女も
 その訳(わけ)ってやつも
 その時々で変わる弱い人間だからだ

 私は自分の書いてきたものの原点を、故郷を離れて大阪へ行った’98年だと思っていたのだが、ここに来て、その3年前、高校の教室で出合い影響を受けた(かもしれない)詩人がいたということに気づいたところだ。

 さて、昨年の私がそれ以上に感動したのが、『伊藤芳博詩集』だった。もう1冊というのは、その本だ。目次を見ると、よくある自撰ベストのように、それまでの各詩集から何篇かを選び時系列に並べる、という編み方をしていない。既成の詩集というまとまりから詩を解き放ち、(「まえがき」によると)「改めて「新詩集」を編み直す、という奇策に出た」そうだ。
 ’85年の『努(ゆめ)屈することなかれ』から’20年の『いのち/こばと』まで、35年分の詩が詰まっているのだが、『いのち/こばと』までの約10年間、詩から離れていた時期もあったとのこと。しかし特別支援学校に勤務する日々から生まれた(らしい)詩を集めた『いのち/こばと』の詩篇を読むと、詩そのものから離れていたわけではないだろうという気もする。
 電車の中で見かけた(他人の恋人であっただろう)少女への語りかけに始まり、夫婦という男女の間に生まれた詩、家族を描いた詩、勤務先の学校で生まれた詩、先輩詩人でもあった亡き父との共作、さまざまなモノや生き物への関心、映画を見ることによって出てきた詩、パレスチナでの支援活動から生まれた詩、etc. こうやって35年をふり返って(再)編集された詩集を前に、何という振れ幅の広さ、懐の深さだろうと思って、すぐに通して読むことはしないでおいた。この中には、たくさんの誰かの存在があるようだ。時間をかけて、ゆっくり、ゆっくり読もうと思う。そうしないと感じられないことがあるのは、確かだ。
 その詩集の最後に収録されている「あかり」は、こんなふうに始まる。

        あかり から
       か がとびたつ
      あり がさまよう
     か がもどってきて
          じぶんの
       ありかをさがす