『アフリカ』を続けて(56)

下窪俊哉

 さて今月は何を書こう、と考えて、すぐには思いつかなかったので、アフリカキカクのウェブサイトにある年譜を眺めてみた。

『アフリカ』を始めた3年後の2009年に、「年末、編集人が会社勤めを諦め、無期限の失業者/自由人となる。」とある。その間がたったの3年であることに、現在の私は驚く。今とは時間の流れるスピードが違う。当時、私には27歳から30歳にかけての時期だった。

 その頃、私は本や雑誌をつくるのが苦痛になっていて、怖くもあり、『アフリカ』をつくるのはそんな自分のリハビリになったということは以前にも書いた。
 当時、会社員としても雑多な文章を書いたり本や冊子をつくっていたのだが、あまり乗り気のしない仕事が多かったので、自分の中でバランスをとろうとした部分もあったかもしれない。『アフリカ』を始めた直後に再就職した会社では割と上手くやっていたようだが(乗り気のする仕事もたくさんあった)、会社そのものが傾いてしまい、最後に再就職した会社では入社初日の朝礼で経営者が話すのを聞いて「あ、ここはダメだ」と思った。そんな自分の直感は間違っていなかったのだろう。お客さんからも「あなたのような人がいる会社じゃないよ」と言われるし、散々だった。とはいえ、せっかく入ったのにすぐ辞めたくはない。嫌々ながら仕事をしていたら何ヶ月もしてから突然、幼い頃から続いてきた吃音が主張し始めて、やがて思うようには殆ど声が出せなくなってしまった。自分の気持ちを裏切って、無理な負担をかけるような働き方をした結果だと自分には思えた。
 そのように私は働くということに困難を抱えていたし、今でもそれを綺麗には払拭できていない。精神的な引きこもり状態から抜け出せたとは思えていない。

 風雷社中との出合いは2012年の晩夏、そんな自分を『アフリカ』とは別の意味で、救ってくれた。大きいのは経済面だが、それだけではなかった。私はそれまでの職業経験を活かさず、全然違う、例えばからだを動かす仕事がしたかった。障害者福祉には関心があったが、専門的に勉強したことはないし、資格もない。でも風雷社中は、そんな人にこそ入ってきてほしい、と謳って求人を出していた。必要な資格は、法人からお金がおりてとらせてもらえるという。そもそも私が最初に彼らを知ったのはSNSで、理事長の中村和利さんからフォローされたからだった。彼がどうして私のアカウントを見つけたのかは不明だ。流れてきた求人を見たら、知的障害のある人たちの外出を支援する仕事とのことだが、ラーメンを食べに行くのが好きな人がよいとかふざけたようなことが書いてあり、仕事というよりは遊びのようだ。でも、副業程度にはなるのかもしれないと思って連絡して、事業所へ遊びに(面接に)行ってみた。その際、「ひと月に幾ら稼ぎたいですか?」と言われて初めて、本当に仕事の面接なんだとわかった。それで、試しにやってみますか? ということになった。その時、自己紹介を兼ねて『アフリカ』を持参したのだが、仕事の面接で『アフリカ』を見せたのは初めてだったかもしれない(仕事ではないかもしれないと思って行ったからか)。話していたら、地域のミニコミにかかわりの深いらしい人が、たまたま入ってきて、紹介されたりもした。最初の頃、中村さんにはこんなことを言われた。「この仕事はまず、その人を生きて無事に帰すこと。最低限それが出来たらよし。怪我もなく帰れたらもっとよい」。そう言われて私は楽になったのだった。それまでは、何か立派な(?)成果物を上げなければならない仕事をすることが多かった。この仕事に、それはない。何事も生み出さなくてよくて、穏やかな時間を過ごせることが求められる。それが成果ということになるのだろう。そのことを私は、とても人間らしい、自然なことだと感じた。それに、生きよう、というか、死ぬまい、とすることにかんして私には情熱があった。「無期限の失業者/自由人」になった時点で、とにかく何がどうあれ生き延びることを目標としたからだ。知的障害のある人たちからは、安心できるということの重要さを教わった。きっと私自身もそれを欲していたからだろう。私はいちおう支援者ということになったが、「どちらが支援されているのかわからない」と話して、他の支援者たちから「なるほど!」と感心するような反応を得たりもした。

 外出支援の仕事を始めて1年数ヶ月たった頃、「「外出」という仕事」というエッセイのような小説のような短篇を書いた。書く前に、ある人に相談した。後に『からすのチーズ』という絵本をアフリカキカクから出すことになる、知的障害、自閉症の当事者であるしむらまさとさんのお母さんだった。背中を押してもらった。
「「外出」という仕事」は、まず『アフリカ』vol.22(2014年1月号)に載り、2020年に出した私の作品集『音を聴くひと』にも収録した。少し引用してみよう。

 町のなかは、なんと、危険に充ちていることだろう。
 風が吹く、というだけで、町は揺れる。ほんとうに揺れているように感じられる。彼は、その揺れる町を全身で受け止めているように見える。
 空を見上げる。ぼくは「支援者」なので、空ではなく彼を見ているが、ときおり、一緒になって見上げる。建物や線路の高架に切り取られた空のなかには、葉っぱのような鳥たちがたくさん舞っている。
 町はうるさい。あちらこちらから、人の声や音楽や、声とも音楽ともいえない不思議な喧騒が、とめどもなくわき出しているようだ。
 町は静かだ。彼といれば、あまりお喋りがない。静かな気持ちで、淡々と町を歩ける。危険と隣り合わせではあるけれど。
 というのも、彼から目を離すと、一瞬のうちに走り出し、車道へ飛び出して行くかもしれない。ふわっと線路のうえへ飛び降りてしまうかもしれない。という、いわば不信感のなかに「支援者」はいる。
 が、彼と共謀して、何か、悪戯をするような気持ちでもある。

「「外出」という仕事」を書いた頃は、息子が生まれる直前で、その仕事を続けたい気持ちはあったものの、いかんせん収入が少ないので、このへんで辞めざるを得ないだろうと思っていた。ところが、仕事は次から次へとあるのだし、辞めたらその分の収入が途絶えるので、なかなか辞めるタイミングがつかめなかった。気づいたらそのまま延々と続けてしまっていた。低空飛行でも、墜落するよりは遥かにマシ、と、まあそういうことだった。家族がひとり増えるのだから、絶対に墜落するわけにはゆかなかった。

 並行して、美術予備校で国語を教えながら、いろいろと話したり、文章を書いたりするワークショップをやっていた。それを、ある場所でふと「ことばのワークショップ」と名づけて話したところ、「それをうちでもやりませんか?」と誘われた。書くこと、読むことはもちろん、話すことも苦手とするような若い人たちを相手にしたワークショップだった。私は自身が話すことを苦手としているし(「まさか!」と苦笑いする人もいるかもしれないが)、書くことも苦手で、本もスラスラとは読めない子供だったので、共鳴があるのだった。読めなくても書けなくても話せなくてもいい、「聴く」ことからやろう、と言って始めた。そのワークショップ自体は長続きしなかったのだが、自分には手応えがあって、その後に生きた。

 絵本『からすのチーズ』は、しむらまさとさんが絵画教室に通いながら、ある時にふと生まれてきたものだったらしい。彼の描いた鉛筆画を見せてもらった。それに、ワークショップノコノコを主宰している画家・荻野夕奈さんがパソコンで色をつけたものも、すでにあったような気がする。これを本にしたいのだが、としむらさんの母から相談された。イソップ童話で有名なからすときつねの話を元にしていることは明らかなのだが、何かちょっと、というか大きく違うのである。
 からすがチーズをくわえて飛んでくる。きつねは腹をすかしていて、チーズが食べたいと思いながら歩いている。そこに、からすのチーズが飛んでくるのである。木の枝にとまったからすは自ら「こんにちは」と言って口をあける。すると、チーズはきつね目がけて落ちてくる。落ちてきたら、きつねは当然、食べる。食べたかったのだからさ、美味しいに決まっている。両者ともニッコリである。というより、彼の描く動物たちは皆、ニッコリ以外ないのだ。からすはその後、「いいきぶん」で飛んでいくのである。読ませてもらって、これには敵わない、と思った。
 それを本にするノウハウは、アフリカキカクには当然あるので、では、やってみましょうか、という話になった。2014年の秋から年末にかけてのことだった。

 その出版を記念したトークイベントを2015年3月に開催した。絵本の作者はいつも鼻唄をうたったり何かブツブツ言ったりはしているが、人前で何か話せと言われても難しい。では、何を、どう問いかければ、話が聞けるだろう。なぜ? 何が? どんなふうに? などという概念は彼には通用しないようだ。必要なのは問いかけと、返ってくることば(にならない何か)を受け取るための力である。そこでも「ことばのワークショップ」の試行錯誤が生きた。話せないはずの人と話をすることが、自分の仕事になったのである。