年明けに銚子あたりに行くことになり、ネットで地図を見ていたら銚子電鉄の観音駅近くに飯沼観音圓福寺を見つけた。昨秋、慶應義塾ミュージアム・コモンズ(KeMCo)で見た「嵯峨本の誘惑:豪華活字本にみた夢」展がこの寺の所蔵品を中心にしていて、会場や図録に飯沼観音圓福寺の由緒やコレクションの由来が詳しく示されていたのだった。改めて圓福寺のサイトを見ると、なんということでしょう、出かける日は寺が所蔵する古典籍を公開する期間に重なっており、しかもそこには西行筆伝「源氏物語 幻」も含まれていた。大河ドラマ「光る君へ」(2024)で源氏物語の綴じ方をじろじろ見ていたときに関連番組でこの「源氏物語 幻」の存在を知り、その後、KeMCoで実物を見たのだった。この連載でもどこかで触れたかもしれない。
予定をやりくりして銚子ではまず圓福寺へ行くことにして、しおさい1号を予約した。東京の東のほうに暮らすので、東京駅からではなく次の錦糸町駅からのほうが乗り換えは楽だ。東京駅だと乗り場は地下4階だか5階の総武線ホームなのでなにしろ遠い。でもこれはいったいどういう心持ちなのか、しおさいの”1号”には”始発駅”から乗りたいわけです。なので朝飯にしらすおにぎりときなこおにぎりを小さく握り、距離も深さも遠回りしてしおさい1号で銚子駅へ。銚子電鉄に沿って仲ノ町駅や車庫、観音駅を見つつ圓福寺に着くと、近所の方がぽつりぽつり出入りしていた。正月飾りをお焚き上げに持って来られたり花を持って墓参される方もいるようだ。本堂脇の建物が展示会場で、こちらにもすでに人がいる。どうぞとうながされて靴を脱いで客殿に上がると、古活字本の「伊勢物語」が並んでいた。畳敷の部屋のガラスケースには、西行筆伝「源氏物語 幻」、泉鏡花「夜釣」「婦系図」の直筆原稿、古活字本「徒然草」、漢籍「昌黎先生集」、壁には光圀から寺宛てと思われる書状も掛けてあった。雑談も弾み、ゆっくり気持ちよく見ることができた。
この日は朝から曇りで寒く、寺を出てしばらくすると風が強くなった。成田線が風のために一時止まっていたほどで、私たちもあとの予定を変更せざるをえなかった。街をつらつら歩いていると大新旅館の前に出た。うわさに違わぬザ・昭和の風情が際立っていて、隣が更地になっていたので建物が奥のほうまでよく見えた。最前列のコンクリートの「にゅうさろん」に向かって建屋が奥から細切れに壁や屋根が違っており、それをねらったというよりは、時代と街の変化に翻弄されつつその都度最前線を担ったそれぞれの空間だったのだろうと思った。おりしも昨年末に、この大新旅館と犬吠埼のホテルニュー大新が連絡がつかなくなっていると報道されていた。確かに入り口は紅白のコーンで塞がれていて人の気配はなかった。その後どうなっているのだろう。
「銚子における紀州移民の定着と港町形成に果たした役割 特に興野地区の特徴形成と大新旅館を例として」(歴史地理学調査報告 第12号 133~153 2006)という、筑波大の清水克志先生の報告書を前に読んでいた。大新旅館は〈近世期に紀州移民の子孫が荒野村の利根川河畔(現在は銚子市中央町)に創業し、現在まで存在する銚子の老舗旅館であり、銚子における紀州移民の展開を跡づける上で、格好の事例といえる〉として、旅館の利用客も細かく調査されている。中に、国文学者で『大日本国語辞典』を編纂した松井簡治(1863-1945)も登場する。簡治は銚子の銚港神社の神官だった宮内家に生まれ、高崎藩の銚子陣屋に勤める松井家の養子になっていた。〈松井簡治もまた、友人や知人を大新旅館へ招き、宴会を催した思い出を手記に残している。松井簡治の父である宮内嘉確は、前出の宮内嘉長の養子で、赤松宗旦とも親交が深く、高崎藩士の子弟らが通う私塾を開いていた人物である。松井簡治が大新旅館に招いた人物とは、上田萬年・和田英松・芳賀矢一であり、いずれも著名な国語学者である〉。
宴会、そして上田、和田、芳賀の名前が出てきてしまってはこの話に触れなわけにはいかない。山口謠司さんの『日本語を作った男 上田万年とその時代』(2016 集英社インターナショナル)に、明治33年6月、箱根塔ノ沢の環翠楼で開かれた芳賀矢一のドイツ留学送別会のことが出てくる。簡治は矢一と同い年、上田万年よりは少し上だが上田の教え子という立場で、この会の幹事は簡治が務めている。簡治はのちに「故上田萬年博士に関する思出のことども」(「国語と国文学」第14巻第12号)でこの送別会にも触れ、芳賀がこのとき詠んだ漢詩も記した。訳も含めて『日本語を作った男』から引用してみる。
塔沢名山麓
無名萃群賢
盛宴亘二日
会費醵五円
(中略)
笑罵徹夜半
喧嗷不能眠
(中略)
高津骨稜々
上田腹便々
(中略)
簡治即幹事
助之有和田
(訳)
塔ノ沢、箱根の名山の麓/無名の自分のために、先生方が集まって下さった/盛大な宴会が二日に及ぶ/会費はひとり五円//笑いと罵倒が夜中まで続き/うるさくて眠れない//高津鍬三郎は痩せて骨がゴツゴツ/上田万年は、腹がパンパンに腫れている//松井簡治は、すなわち幹事/これを助けるのが和田英松
簡治は明治25年には学習院の教授になっており、そのころには文献によった辞書作りを思い立っていたそうだ。古書店の浅倉屋から大量に資料となる本を購入すると、本業にさしさわりがないように午前3時から8時までを索引作りにあてていた。『大日本国語辞典』の刊行が決まってからは1日33語と決めて執筆(年に65日は休むとして算出)、それをひとりで20年間続け、合計およそ20万余語をもって『大日本国語辞典』を完成(大正4~8年 冨山房刊)させたという。ごく単純に映画『博士と狂人』(2018)で見た限りの『OED オックスフォード英語大辞典』の誕生と比べても、印象にすぎないけれどもとにかくひとりでこなしたというのはあまりに異様で偉業だ。そして『大日本国語辞典』は簡治亡きあと息子の驥と孫の栄一が資料を引き継ぎ、版元を変えて多くの人が編纂に加わった『日本国語大辞典』へとつながる。
辞典映画でもう1つ『マルモイ ことばあつめ』(2019)を改めて見て、簡治がひとりで辞書編纂に集中することを可能にした時代背景みたいなものも思った。この映画は日本統治下の韓国で中断させられた韓国語辞典作りを描いているが、前半で方言の収集に難儀しているのを知った主人公がムショ仲間の地方出身を集め、”七人の侍”よろしく14人が通りの向こうからずんずん現れるシーンがある。「コチュジャンをなんと言う?」など問われそれぞれが自分の体にしみついた言葉で当たり前に答えると、互いに微妙に違うのが怪訝でもありおかしくもあり誇らしくもあり、部屋は熱気を帯びていく。先生たちはそのかたわらで、微妙すぎる発音の違いを神妙に聞き分けて文字にしている。試しに私も映画を見ながら書き起こしてみたんです。コッチジャン、カンツゥダ、コチョダン、コーチャン、テンチジャン、コイジャン、コッチジャアン、エンガイジャン、コッチダン、コッチダン……0.6倍速で3度聞いてこの程度――。映画では、やがて差し入れのホットクが届いて歓声が上がった。このとき思わず「ありがとうございまーす」と声が出た青年がいた。京城の映画館で働く青年だった。