毎日まいにちそれも朝昼晩に眺めつつ暮らしていると、愛着がわくと同時になんとなく飽きてもきます。
ひがしの空に目をやれば名も知らぬ山の向こうにいつものぞいている富士山。
標高は3776メートル。
静岡の清水側から日々見ていたからかもしれませんが、そんなに高い山には見えない。
四季折々表情を変えるといってもやっぱり毎日のことだから気にも留めない。
山というものはおもしろいもので、近くで見るとずっしりとした量感を感じますが、遠くから眺めているだけでは平面的にのみ視野にひろがってくるように思われます。
つらなる山並みもその稜線もきわめて薄っぺらな感じにこちらに迫ってきます。
富士山といえどもある距離を置いて眺めれば、平面的なまさにぺらぺらの一枚の絵(それこそ絵ハガキ)のように目には映ります。
近隣の山々に遮られている場合はとくにそのように視野にひろがってきます。
~それにしても魔訶不可思議の山ならん いまわがまえのふじかげひとつ
富士山は見事なまでの独立峰といわれています。
けっしてほかの山々とは交わらないというつよい意思のようなものを感じさせるほどです。
あの長い長い裾野あればこその円錐形は、どの時代にあっても人を魅了する。
とはいっても、富士山は歴史的にも1000年以上の昔から噴火を繰り返してきた日本最大の火山でもあります。
3000年ほど前(縄文の終わりごろ)の富士山は今の新しい富士山とはちがった姿をしていたといわれています。
つまり古い古い富士山がいくつか今の富士山のお腹のなかに隠されているようなのです。
その後何度か大きな噴火を繰り返してきた結果、現在のかたちになったわけです。
ということは、いつまたその姿かたちを変貌させるかわからないまだ真新しい活火山のひとつということになります。
滑り
やすき
プレートの
上にあわれあわれ
富士のすそ野はどこまでがすそ野
地震学者つじよしのぶ(都司嘉宣)の著書『富士山の噴火~万葉集から現代まで』に詳しく書かれていますが、富士山はたまに休んだりはしますが、噴煙は頂上その他から排出しつづけていたといわれています。
竹取物語の最後のくだりは以下のように締めくくられています。
帝は、天に一番近い山は駿河の國にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の藥を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになつて、その藥の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るといふことであります。
竹取物語:和田万吉(青空文庫より)
富士 冨士 不二 不尽 不死・・・。
数多くの古文書にも顔を出すように、煙りたなびく富士の高嶺はその当時のひとびとにとって日常茶飯の出来ごとであったのかもしれません。
~けむり吐く不尽のたかねに身を焦がしうたいたりけれいにしえびとは
そんな富士山に一度だけ登ったことがあります。
高校一年の夏のこと。
学校主催の遠足みたいな行事だったと記憶していますが、一年生だけの自由参加でした。
男女合わせて150人くらいは参加していたかと思います。
七つ年長の従兄弟から登山用具を借りての富士登山は、思っていた以上にきつかった。
八合目あたりで山小屋に一泊して翌日早朝頂上を目指すことになっていました。
同級生たちの多くはその夜こっそりと山小屋を抜けだして星降る夜空を仰ぎに行ったけれど、自分は同調しなかった。(担任教師が小うるさかったからでもあるが。)
~夜の月にもっとも近きお山なれば赫映姫にも愛されたるらし
早朝のご来光は、夏の富士ではすっきりと拝むことはとても無理な話で、それでも一応東方向いて手を合わせました。
それから頂上を目指して登り始めたのでした。
かくて山道と悪戦苦闘しているとき、後方からすごい勢いで登ってくる一団があった。
同じ高校の山岳部の連中だった。
訓練の一環だったらしい。
そのまま追い越されてあっというまに見えなくなった。
頂上に着いたら土産物屋があった。
その一角でカルピスのような乳酸飲料をコップに分けて売っていた。
とにもかくにも冷たいものが欲しかったので、みんなわっと群がった。
百円でのどを潤したのち、希望者のみお鉢巡りをした。
富士山の火口をぐるりと一周するのである。
火口の周囲には煙りもなければ地熱も感じなかった。
ただ火口の底に大きくゴシックで四文字、高校の名称が書かれてあった。
山岳部の連中が火口の石を目立つように並べて置いていったのだ。
こっちはもうくたくたなのに、よくやるなあ。
その後全員無事に須走を文字通り全速力で駆け下りた。
自分は一組だったので、めずらしくトップ集団のまま下山した。
下界は空気がおいしかった。