CWR

北村周一

~秋の日の昼下がりのC・W・Rはたまたプラス・マイナス・ゼロの誘惑

懐かしくも、謎めいた暗号のような3文字のアルファベットは、Clear Water Revivalの略、絵のタイトルでもあります。
字義どおりに訳せば「清水再生」。
水は安心して飲みたいものだけれど、ここでの清水は、あの静岡県の清水市のことです。

やや古い話になりますが、たぶんこの頃から、絵を描くまえにそれぞれにタイトルをつけていたように思います。
それまではたんに無題とか、数字や記号(日付を含む)がメインだったのですが、それだと一体どんな絵だったのか、描いた本人ですら見分けることがむずかしくなっていたからだろうと思われます。
そんなわけでそのうちの1点、F80号の作品を、「CWR」と呼んでいたのでありました。

1994年の春から描きはじめてすでに3年が経過、その間に父の死があったり、つづいて母との同居、さらに実家の処分、加えて新居探しと、めくるめく一連の出来事が一段落したのちのこと、12月(1997年@ときわ画廊)の個展に向けて制作を再開していた時期のことであります。
思い返せば「CWR」には、途中で放棄した作品の継続、あるいは復刻の意味も込められていたように記憶しています。
とはいえ、あくまでも動機づけとしての絵のタイトルであり、ときには遣りすぎてしまい気づくととんでもないところへ行っていたなどということのないようにするための、いわば保険のようなものでもありました。

唐突ですが、この頃の清水には、映画館が一軒もありませんでした。
人口20万人を優に超える市としては、にわかに信じがたい文化状況ではありましたが、むろん美術館といえる施設もなくて、こんな町はすみやかに見切りをつけた方が得策なのではあるまいかという思いもあったのですが、育ったところをそうそう無碍にもできず、いまや郷里清水喪失の身、バブル崩壊後のいわゆる産業一辺倒の、結局アワを喰ったヒンシの町はもうオシマイ、新たなる道を見い出した方がマシなのではないかと案じていたところ、静岡市との合併話が報道されたのでありました。
当時の新聞記事にはこう書いてありました。
「静岡市+清水市=日本一」。
清水、静岡の両地域にまたがって、風光明媚で知られる日本平があればこその、このような頭出しになったのではないかと想像はしましたが、それにしても「日本一市」を名乗るとは、また品のない市名を選んだものだなあと少なからず恥かしい思いを抱きました。
真相は、当時としては日本一の市有面積になるということのようでしたが、やっぱり日本一を標榜するのはハズカシイ。                              

~しずみそうなしみずのまちのかわぞいの月かげさえも淡々(あわあわ)として

閑話休題。
自分のような絵の描き方をしていると、大雑把にいって帰納的な方法とでも呼ぶとして、画面上に生まれた線や、かたち、色彩が、すでにどこかで見たことのある何ものかに近いと感じさせる、もちろん事物のイメージを描いたのではないとしても、深いところで、ある意識のようなものの一端があらわになったのかもしれず、それらは、描く以前から眼前にありながらも、まるでもっと別のところから派生してきたかのように、つまりは絵の具という(底知れぬ)物質をともなって、それ以上でもそれ以下でもなく、たんにたちあらわれてきたもののように、往々にして振る舞っているように見えてくるのでありました。
画面上の線やかたちや色遣いが、とある日の(どちらかといえば幼き日々の)清水の海側から見た山々の稜線を感じさせる、感じさせていることに、後になって自分自身も驚きを抱きながら気づかされたのでありました。(とりわけ初期の作品群)

~開けてある窓のほうのみ暗く見え反射と反省語源はおなじ

ところで「清水再生」の清水は、目に見えている清水ではないことはすでに明らかです。
自然に(から)学ぶ(真似ぶ)ということと、自然そのものを学ぶ(真似ぶ)ということとは、微妙ではありますが異なるものと考えています。
つまり自然という素材をもとにして(さまざまに分析しながら)描くということと、自然そのものを対象にして(ひとつの全体として)描くということとのあいだには、隔たりがあるように思われてなりません。
いい換えれば視像の問題、あるいは絵画の外部性の問題、ひいては反省的判断力にかかわる問題でもあろうかと思うのであります。
敢えて「CWR」と銘打つことによって、より明らかに対象を把握したいという願望、さらに名づけることは同時に対象の可能性をある程度類推することでもありますから、たとえ朧気であったとしても、画面上の問題(様式)として捉えなおしたいというこちら側の主体的な意思(非連続の連続)のあらわれでもあろうかと思うにいたったわけです。
 
マーク・ロスコ(1903)、ウィレム・デ・クーニング(1904)、クリフォード・スティル(1904)、バーネット・ニューマン(1905)、ジャクスン・ポロック(1912)、ロバート・マザウェル(1915)などなど(生年順)、アメリカの戦後の作家群(いわゆるニューヨーク・スクール)のしごとの数々を総称して通常、抽象表現主義と呼んでいます。
アーヴィング・サンドラーのテキストによれば、抽象表現主義絵画にはいくつかの特性があり、①イメージの優位、②強力な地方主義、③恐ろしいという思い(崇高性)の3つに要約されると書かれています。
アメリカの広大な土地、自然と風景、人間の持つ内的な力(拡張性)と同時に(いわば中心のない)絵画として表現したともいわれています。
そして強力な地方主義、この圧倒的に強いローカリズムは、それまでの西欧の伝統(モダニズム)との関連(反発)を想起させます。
わけても巨大なキャンバスと、今までにない手法(たとえばオール・オーヴァ)による自由な創造が、同時に普遍的テーマ〈崇高性〉を喚起し、地方主義絵画は世界を獲得したといわれてきました。
当然のことながら、バックにはアメリカのそれこそ巨大なマーケットが控えており、ハリウッドを中心とした映画文化、ライフなどの出版文化などなども相俟って、経済的にも広報的にもマス・メディアが下支えしてきたことは、歴史が証明していることです。

翻って、自己の内面の追求を旨とするべく日本の現代絵画は、もとより普遍性からは比較的遠い位置にあったこともあり、むしろ逆に物質化にその存在の意義を見出すようになったのではないかと考えられています。
すなわち物質化に形式性を還元することが、目的と化したともいえるかと思います。
その様子はいわば、高度成長期を生き延びてきた現代日本社会の進展と、相関関係にあったようにも見受けられるのです。
しかしながら、そのようなアメリカ型のサクセス・ストーリーをそのまま極東の国に当て嵌めてみても、ぎくしゃくするのは当たり前のことであったでしょう。
この場合、予め与えられた地方性を標榜するために、つまりは向こう側から見たらどう見えるかが一大事であり、要はしっかりと地方(日本)になっているかが喫緊のテーマとなったことは、これもまた歴史が証明していることです。
もちろん本末転倒も甚だしいのですが、一見ストレートに見えるために、有効な手段として今日もなお活用されているように思われます。

〈注1〉 2001年現在、清水市(港橋)にシネマ・コンプレックスが存在する。
〈注2〉 2003年4月より、清水市は合併後、静岡市の一部となった。
〈注3〉 美と崇高については、いずれ書き改めようかと考えています。

   ***

追記Ⅰ 
爆笑問題の左側
たまたま電車の中吊り広告で見た、何のコマーシャルだったか、右(観客から見て向かって左側)は非日常的ポーズを取ってはいるが、あまり目立たない。
立ち位置の左(向かって右側)は、よく目立つ。
なぜか?
日常において際だっているからといって、情報として人目を引くわけではない。
表現されたときに、この場合映像化されたときに、人の目を引きつけることが肝腎だ。
技量のある個性派俳優の日常は得てして俗っぽい。
あくまでも表現上の問題であろう。
ここでは3つのポイントを押さえておきたい。
複雑な構造(つまりはヒネクレタといおうか)と、単純な表現性(シンプルであること、迷いがないともいえる)と、ストレートな攻撃力(ふだんは気づかずにいることを指し示すだけ)の3点。  
これら3点はそれぞれ、拘る、捨てる、指示するだけ、という述語とも連鎖する。
巷には、瞬間芸があふれている。
したがって、わずかでも滞空時間のある芸は技術があるように見える。
むしろ古くさい手法なのだろう。
だとすればそれがわかる人も多くはいないということになる。
お笑い芸人の有り様は、現代の美術とも通底する問題を考えさせる。 
北野武の今風アートへの接近もたぶん偶然ではないのだ。(1998)

追記Ⅱ 
プラス・マイナス・ゼロの誘惑 
±0
+100と-100
+10000と-10000
結果的に±0になったとしても、その過程はまちまちであり、ひとくちにバランスをとるといってもふりこの振れ方は、そのときどきに応じて各々異なる。
大きく振れたときに、また大きな戻りを生ずる(健全な自浄能力があったものと仮定して)。
けれども手の打ちようがいくぶん速かった場合、核心に迫る問題に届かぬままもとの鞘におさまってしまうことだってある。
過ちは過ちとして「かたち」を見せておかないと人は納得しない。
思うに、フラットであればあるほどひとは大きな事件を嘱望することになる。
波風を立てないでいると、大きな波風に巻き込まれる。
むしろふりこが振り切れるくらいの大きな事件を期待していたのだともいえる。
それではだれが期待していたのであろうか。
そこにいた、みんながである。
事後、コトを忘れたかのごとくふたたびみんな、フラットに戻る。(2000)

追記Ⅲ
Alumatiksの夢
Alumatiks(アルマティクス)とは「アルミニウムのような」という意味の造語でありAlumatiks Blue(AB)は最初の個展から今日にいたるまでの基本的ないわゆる私性としての色の総称である または軽佻浮薄
Alum alumina aluminium ; 記号Al 原子番号13
  -atiks atikos(Gk) ; ~の ~の種類の ~の意 
          ギリシャ語 ラテン語起源の形容詞に用いられる
 
昔々のことだけれど、町田市南成瀬に住んでいたことがある。
成瀬はもともと「鳴瀬」、鶴見川の支流である恩田川周辺の土地をそう呼んだものらしい。一帯は雑木林に囲まれた丘陵地だった。
ところで、「なるせ」をアルファベットに置き換えると、「naruse」逆さにすると「esuran」
ちょっと工夫して、「s-run」つまり「師走」、または「s走る」となり、もう一度漢字に戻すと「絵寸覧」、画廊喫茶にぴったりのネーミングだと思うけど、如何だろうか。
ちなみに、JR横浜線成瀬駅の2つ隣りは「十日市場」駅だが、駅のアナウンスはどういうわけか、「東海千葉」と聞こえてしまうのであった。(1998)

~十二月骨よりしろき肌透けて絵とは大いなる省略であろう