「カルボナーラってさ、わたし、喧嘩した後の食べ物なんだよね」、と姉が言う。姉はフランス在住20年以上である。「だってさ、」と姉は言う。パスタはたいていどこかにあるし、冷蔵庫には、玉子が入っているでしょ、チーズもね、ベーコンだって残ってる。それから生クリームもあるじゃない。だから、喧嘩したあとで、買い物に出るのも嫌だけど。お腹空いた、ご飯食べようとなると、カルボナーラになっちゃうんだよね、と語っている姉。
その話を聞きながら、わたしは、日本の家庭の普通の冷蔵庫には、「いつでも生クリームがある」ってことはないような気がする、と考えている。フランスの生クリームは、いろんな種類があって、わりとさっぱりしていてヨーグルトのような味わいのものから濃いめのものまでバリエーションがあり、お菓子に使われるばかりでなく、料理にもよく使われる。日本だと、ショートケーキのような洋菓子を作るとき以外に、買ってこようと考えること自体がないような気がする。
先日パリを訪れたさい、その姉が、「ご飯食べにいらっしゃい」と言うので、バスチーユからほど近い姉の家へ行った。今回、わたしがパリに来たのは仕事のためだが、丁寧な暮らしを心がけている姉の家は、白とベージュを基調とする温かな雰囲気で、仕事の打ち合わせや会食などの人付き合いで疲れたわたしにとっては、いつもほっとする場所である。「ご飯作るねー」と言ってキッチンに入り、なにやらトントンしていた姉がしばらくして「親子丼だよー」と運んできたどんぶりものは、しかし親子丼とは似ても似つかぬ代物。「なに、これ?」と尋ねるわたし。「親子丼だよー」とにこにこする姉。「いや、でも、普通、親子丼って、にんじんとかピーマンとか、入ってないよね? もしかしてこれはじゃがいも?」と尋ねるわたしに、「親子丼ってにんじん入ってるよね? 実家の親子丼には入ってたよね」と姉。「いいえ、入っておりません」と訂正するわたし。「親子丼は普通、鶏肉、玉ねぎ、だし汁、たまご、以上! 実家の親子丼には三つ葉さえ入っていませんでした!」と言明するわたしに「えー」と意外そうな顔をする姉。「美味しいけどさ……ローカライズするにしても、ちょっと行き過ぎじゃない?」とぶつぶつ言いながら、「親子丼」の跡形がほとんどないどんぶりものをつつくわたし。
そういえば、駅前の八百屋が廃業して、跡形もなくなってしまった。駅前の再開発のためである。とはいえ小さな駅なので、いくつかのテナントが入るひらべったい小さな雑居ビルができただけではある。そして、八百屋はなくなり、その跡地はタピオカドリンク屋になった。真冬に開業したタピオカ屋はしかし、そのあとコロナ禍に突入したために、食べ歩きのお客さんを当てこんだ狙いは外れ、客が入っているのを見たことがない。こんな疫病の時代には、すぐに潰れるだろうと眺めているうちに、タピオカ屋の店頭にはいつしか、長ネギやトマト、きゅうりなどが並ぶようになった。「ん? これは元・八百屋の中の人がやっているのか?」という疑問が湧きつつあるうちに、タピオカ屋はみるみるうちに八百屋化していく。そもそもこのタピ屋はあの八百屋の孫娘あたりが始めたもので、それがうまくいかないものだから、やり手のじいちゃんが「ここはひとまずオレに任せろ」としゃしゃり出てきた、というパターンではないのか? などと考えているうちに、そのタピ屋は八百屋としてはそれなりに商売繁盛し始めている。奥の方ではひっそりとタピオカドリンクも売っているかと思われるが、ドリンクを買っている人は見かけない。そしてそのうちにコロナもおさまって、野菜は消え、いつのまにかしれっとタピ屋に戻っている。あれは一体全体どうしたことだったのだろうか、とわたしは今でも首をかしげている。
そもそも、当該八百屋のじいちゃんは、やり手だった。まだ娘が小さかったころ、ベビーカーを押して八百屋へ行くと、バナナを1本プレゼントしてくれる、ということがよくあった。ただ、わたしがメインで使っている八百屋は別にあったし、そこは値段がいちいち高いのであまり行かないながら、間に合わせに使うことはたびたびあった。大きなトマトが1個250円、などというのはびっくりするくらい高いが、実際それは特大でしかもおいしくて、家族3人で満足できる分量なのでたまに1個だけ買っていた。しかしある日、夫がひとりでバナナを1房買って帰ろうとしたときのことである。「これください」と夫が指差したのは5本のバナナがくっついている1房だったのだが、じいちゃんがビニール袋にさっと入れるさいに、どうやら手が動いたらしく、4本になっていた。さっと1本抜いたと見られるが、もちろん値段は同じである。買い物慣れしない夫はそのまま袋を受け取り、なにげなくのぞいたら、バナナが4本。「あれ? おかしいな……」と思ったものの、あとの祭り。帰宅してわたしに文句を言っていた夫であったが、「まあ、普段から娘がバナナもらってるし、その分が抜かれたと思えばいいのでは」というわたしの曖昧な結論でお茶が濁されることになり、しばらく釈然としないようすであった。
ネタバレは釈然としないものである。鳩尾が映画「ショーシャンクの空に」を見たことがない、と言うので、つい熱がこもり「あれは本当に気持ちのいい映画なのよ、始まりは確かに冤罪だし、牢獄に繋がれて理不尽なことがひたすら続くんだけども、それがね……」とつい語り始めるわたし。話が切れたところで鳩尾が一言「いいんですけどね、その映画、わたし見る必要ありますか?」。ハッと気づくと、わたしは肝心なところを盛大にネタバレしていたのだった。すっきりしているわたし、釈然としない鳩尾。
最近。髪色を明るくして、短く切った。長年、若い頃はよくショートにしたものだったが、この年頃になってから「機能的」なだけの髪型をすると、労働者としての自分しか意識できなくなるので、遊びの欲しいわたしとしては、パーマをかけたり髪を染めたり、さまざまな髪型の変遷をしてきている。「ショートの金髪にしたいんだよね」と持ちかけると、「それ賛成!」と即答する娘。そもそも娘の物心がついた頃には、すでにわたしは金髪だったので(この頃はボブ丈だった)、金髪がわたしの地毛だと思い込んでいたそうである。むかし、娘が数え7歳になったとき、世にいう「七五三」というものをやってみようと思い立ったわたしは、能装束研究者のショーダ先生に教わってお着物を揃え、髪色もそれに合わせて黒髪に染めた。久しぶりの黒髪を新鮮に思いながら帰宅すると、わたしを見て呆然とする娘。「その髪、なに!」「ほら、着物着て写真撮るから、黒くしたのよ」と答えるわたし。その後、夜ご飯を食べながら、何度もわたしの顔をチラ見しては、くっと顔を背ける娘。しまいにはパタパタと膝の上に大粒の涙をこぼして「こんなのママじゃない……」と泣き始めてしまった。「ごめん! ごめん!すぐに金色に戻すから! ごめん!」とうろたえるわたし。その場で美容室に電話をかけ、「ごめんなさい、娘がどうしても黒髪が嫌だというので、金髪に戻してもらえませんか……?」と相談すると、驚きながらも「わっかりましたぁ! 明日、来てください!」と明るく即答してくれる美容師さん。翌日、金髪に戻したわたしの髪をみて、すっかり満足する娘。常識がどのあたりに初期設定されているかで、人の受け止めというのは全く違うのだということを学んだ出来事だった。ちなみに髪色戻し(?)のお代金は、定価の半額であった。
国や文化が変わると、常識がスコンと抜けてしまうので、わからなくなることはたくさんある。それは単に言葉の問題ではなかったりする。母が日本語教師をやっていたので、わたしが高校生くらいのころ、しばしば生徒さんが家に遊びに来て、食事会などをしていた時期がある。その中に、われら4姉妹がいたくお気に召していた生徒さんがいた。彼は、我が家のリビングにでんと居座っているグランドピアノを見たとき「ほんものの『砂の器』だ! 僕は日本に来る前、日本人の家にはグランドピアノがあると思っていたのに、見たことがなかったんです!」といたく感動していた人である。彼は、当時、姉が通っていた音大の学園祭に行きたいと言い出し、姉の演奏に合わせてやってきたそうである。コンサートだから花を持って行こうと思いついたまでは良かったが、演奏会に現れた彼が手にしていたのは、仏花。白い紙に包まれて、白や黄色の菊などが入っているお手頃な、あれである。嬉しそうにそれを差し出す彼に、「ああ……」と思いながら黙って受け取る姉。ピアノの上に置いておくと、「それ一体なに?」と何度も聞かれ、とても困ったそうである。その後、母は、「仏花」を含めた冠婚葬祭などの儀礼の常識について解説する授業をやってあげたそうである。
食べることの大好きな11歳の甥っ子は、口内炎ができてしまって悲しんでいる。パパの友達のおじさんに、一生懸命話しかけている。「あのね、僕ね、口内炎がみっつもできちゃったんだよ!(J’ai trois aphtes!)」。おじさんは「そうか、そうか、それでおまえのお気に入りはそのうちのどれだい?(D’accord, alors lequel est ton préféré ?)」と答えている。それはいったい、どんな口内炎なのか。
たしかに、喧嘩をしたあとはお腹が空く、とは思う。先日、某チェーンの喫茶店で、他愛もないような、それでいて真剣なことで、B氏と言い争いをしていた。滑稽な誤解と切実な弁明が終わったあとで、「お腹空きましたね」とナポリタンを頼んで食べることになった。「付き合ってるわけでもないのに、痴話喧嘩みたいになってしまって、すみませんでした」とわたしが言うと、「え、チワ、痴話喧嘩。確かに、そう言えなくもない。でも痴話喧嘩なんて、したことありますか」と目を回すB氏。「わたしは、わりと、ありますかね……」「ええっ、そうなんですか……?」と、ふたたび微妙な空気の流れる食卓。
食べ物がまずいと、気まずくなることがある。あるとき、わたしとしたことが、なにを思いついたか、友達がそれぞれシングルだったので、紹介するよ! と言い出して、くっつけおばさんをやったことがある。それぞれ好きな友達だったので、うまくいくだろうと思って気楽に会わせたのだったが、待ち合わせは銀座のイタリアン。そこで男性側が頼んだメニューが、よりによって、イカ墨のパスタ。口の中が真っ黒になるタイプのパスタを、3人でもぐもぐしたのであったが、味も半端だったうえに、全員の口が真っ黒になってしまって、話も盛り上がらず、当然のことながらその後、なんの発展もなかったのだと聞く。恥ずかしい限りである。
話題になるかと思って買ってみたけれど、まずいというほどまずいわけでもなく、面白くなかったのが「サラダパン」。たくあんをとヨネーズがコッペパンにサンドされている、というだけのパンだというので、つい悪気を起こして買ってみたのだが、まさに文字通り、たくあんとマヨネーズが入っているだけで、すごくまずいわけでもないくせに、逃げ場がない。食べているうちにだんだん腹が立ってきて、途中でやめてしまった。
わたし「ちょっと人生が嫌になる13の魔法とか、どうだろう」
夫「逆ライフハックみたいな?気づくと人生がちょっと嫌になる、みたいなのね…」
わたし「シラスには1匹ずつ目がついてる、とか?」
娘「違うでしょ、バックヤードの汚さとかじゃないの?」
わたし「やーめーてー」
人生がうまく言っていないときというのは、なぜウエストもうまくいかないのだろう、とつぶやくと、娘が「ああ、わかる」と激しく同意する。そこらへん、ライフハック、求む。