とりは巣に戻った(晩年通信その4)

室謙二

 私のはじめての音楽は、Jazzだった。
 それもチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーなどのビーバップであった。歌手ではビリー・ホリデイで、本格的なのである。
 兄は十三歳年上で、都立九段高校に入ったとき私は二歳だった。戦時中は学童疎開で両親と離れて暮らしていた兄は、戦後はJazzを聞き始め、高校に入って硬式野球を始める。ともに戦争からの解放である。アメリカからきたJazzは、戦争中は敵性音楽で聞いてはいけない。アメリカからきた野球はすでに日本に定着していたが、英語の用語は使ってはいけない。アウトは「引け」であり三振は「それまで」で、ワンストライクは「ヨシ一本」であった。

 敗戦のあとでもビーバップの日本語放送はなかったが、米軍兵士向けのFEN放送(Far East Network)で、一週間に一度だけ黒人兵士向けの番組があったらしい。次の日には野球部の練習中に、二塁ベース上でセコンドの選手とショートの兄が、昨日のバド・パウエルとディズー・ガレスピーはよかったなあ、などと話をしたとのこと。セコンドもビーバップのファンであった。
 兄は自宅では戦前の旧式ラジオでガンガンとビーバップを聞き(両親はもっと音を小さくしなさいと言い続けたが)、私もその恐ろしい音のビーバップを聞いて育った。そして幼稚園に行って、ビバビバ・ブーとスキャットしていたのである。

 しかしジャズだけではなく、浪花節も聞いていた。
 広沢虎造(二代目)大ブームの時代である。ラジオの時代である。清水のヤクザの次郎長伝である。片目の森の石松の、船上での「喰いねえ、喰いねえ、スシ喰いねえ」というところなどは暗記していた。ところが我がプログレッシブな小学校のPTAで、教師は母親たちに、非教育的な浪花節は聞かせないようにと言ったらしい。だからと言って、両親に聞いてはいけないとは言われなかったが。
 同時に、父親が戦前から持っていたクラシックのSPレコードがあって、ショパンのピアノ曲なども聞いていた。高級軍人の家には社交用のピアノがあったそうで、でも長男たるものは、ピアノを弾くなどという軟弱なことはしてはいけない。だが少年であった父は、将官の父親に隠れて弾いた。ピアノのないときは、紙に印刷されたキーボードで指の練習をした。
 ずっとあとになって父が高校の教師になったとき、生徒が校歌をうたうときは、ピアノの伴奏をしたらしい。でもいつも音を間違えてねえ、と言っていた。
 わが家にはスプリングの手回しポータブル蓄音機があった。電気はまったく使わない。と言っても、わからない人が多いかもしれない。知りたければGoogleしてください。その小さな音で、私はショパンを聞いていた。

 そして、はじめての楽器はウクレレだった。
 兄さんが友人からウクレレを借りてきた。戦後のハワイアンのブームのときであった。
 こんな風に私がいろんな音楽を聞いたり、ちょっと演奏してみたりするのは、いまも昔も同じことだね。

 病気とウクレレ

 今から二年ほど前、一六歳年上の姉さんに末期ガンが発見された。あと数週間かもしれない、と息子(つまり甥)が言ってきた。姉さんに電話をすると、「ケンちゃん、ウクレレを弾くわよね。それをもってきて一緒に弾こう」と言われた。姉さんは二十年ぐらい前から、もっと前かなあ、ハワイアンを踊っていて、ウクレレもぽつりぽつりと弾いていた。それにいちどいっしょに、ハワイに行ったことがあった。
 私がまだ子供の頃、兄のウクレレを借りて、遊んでいたのを覚えていたのだ。
 それであわてて、ウクレレをハワイに注文した。送られてきたウクレレを手にもつと、驚いたことにCとかFとかG7とかを手が覚えていた。この何十年間、ギターは思い出したように弾いていたが、ウクレレは四十年ぶりぐらいではないか。
 東京に行ったら、姉さんのアパートで一度だけ床に座っていっしょにウクレレを弾いた。ハワイアンではなくて、「赤とんぼ」「春の小川」などの童謡とか、唱歌「旅愁」だった。あとはもう力がなくて、「ケンちゃん、寝室のドアを開けておくから、廊下でウクレレを弾いてね。それを聞いて眠りたい」とのことだった。
 朝の四時に呼吸が止まったときは、私ひとりがいっしょだった。それで般若心経を唱えた。それに観音経の偈の部分を唱えた。それを聞いて、別室に寝ていた次男の海太郎がやってきて、ヒンディー語でお経を唱えた。海太郎は次の日にインドに発った。
 
 まだ話はある。焼き場が満員だったのである。それで姉さんは自分のアパートで五日も寝室で眠っていた。毎日、葬式やさんが来てドライアイスを変える。私は何週間かの看病と、何日も同じアパートで亡くなった姉さんと暮らしたためだろう、葬式の日には私が病気になっていた。焼き場にも行けなくて、姉さんのアパートにひとり戻って、ベッドではなくてリビングルームの床に横になった。
 こんなに弱ってしまったら、カリフォルニアまで一人で帰れるだろうか?
 ユナイテッド航空に電話をしたら、空港で車イスを用意しますとのことだった。なんとか荷物を持ってアパートの外に出て、タクシーを拾って羽田空港まで行った。チェックイン・カウンターには車イスがまっている。それに乗って、「ふー」、がっくりとした。車イスを押してもらって、滑るように空港を移動するのは新発見であった。
 飛行機に乗るのも手伝ってもらい、サンフランシスコ空港でも車イスが待っている。税関・入管も通り抜けた。ロビーでは妻がベンチに座っている。
 彼女が立ち上がって歩いてきて、
 Welcome Homeと言い、
 私は、Thank you, my loveといった。
 姉さんのと私の、二台のウクレレを持って、
とりは巣に戻ったのである。