ゴロベースで遊ぶ(晩年通信 その20)

室謙二

 ゴロベースというのは、ピッチャー役が、ゴムボールを転がす。指でボールを捻って、変化球を転がしたりするのだが、地面が平でないとボールは思ったようには転がらない。バッターは低い姿勢で構えて、地面を走ってくるボールを右手親指の根本で打つ。注意しないと手が地面をこすっていたい。うまく打てば、ボールは早いスピードで地面を転がり、守りの間をすり抜ける。あるいはライナーになったり、フライになってホームランだ。
 友だちとゴロベースで遊んでいたのは、9歳か10歳ぐらいで、だから小学校の3、4年生だったろう。1955年(昭和30年)ぐらいかな。江戸川アパートの中庭だった。ベースは一塁、三塁にホームの三つなので、三角ベースともいった。3人いれば狭いスペースでも遊べる。ベースといっても、白いキャンバスの四角ベースは必要なし。ただここがベースだと言えば、それがベースとなる。大きめの石でも棒切れでもいい。

 あの頃ラジオの野球中継を聞いていると、アナウンサーが興奮して、「バッター打ちました、サード·ゴロ。ファーストに送球」とか、「ピッチャー·ゴロです。あっゴロをこぼしてエラー」」とか、ゴロという言葉がたくさん出てくる。
 ゴロは、ボールが地面を小さく飛び跳ねたり、転がったりしていくことだね。インターネットで調べたら、ゴロの語源は、英語の発音のgrounderが転じたものだとか、擬音語の「ゴロゴロ」が転じたのかもしれないとも書いてある。
 それでゴロとベースが一つになってゴロベースになった。ゴムボール(軟球テニスボール)と素手を使いどこでも遊べる。ひとチームは2人以上、つまりピッチャーと守り手。この二人で一塁も二塁も三塁のベースも守備範囲にできる。一人で掛け持ちしたっていいんだ。だからプレイヤーは1チーム最低2人、でも3人いた方がいいなあ。それ以上何人いてもいい。楽しかった。江戸川アパートの中庭、大きな銀杏の木の下で、日が暮れるまでやっていて、母親が「食事ですよ」と呼んでくれる。

  Play catch

 ゴロベースは、もちろん英語ではない。キャッチボールも、英語ではないね。英語だとPlay catch。
 キャッチボールは、ボールを相手に取りやすいように、だけど早い球で投げる。それを胸の前で受け取り、投げ返す。私は十三歳上の兄さんと、このキャッチボールをよくやった。兄さんは都立高校の硬式野球部で、ショートを守っていた。だから野球はうまくて、十三歳下の弟に教えてくれた。そのころは私は小学生高学年で、兄さんはまだ大学生か大学を卒業したばかり。そしてついに買ってもらった革のグローブと、軟式ボール(プロ野球が使う硬式ボールではない)でキャッチボールをしたのです。
 だけど30年ぐらい前にアメリカに住み始めて、近くの広場とか学校の校庭を見ても、あまりキャッチボールを見ない。だいたい東京に戻っても、子供たちがキャッチボールをしているのを見ない。と言っても、別に統計をとっているわけでもないから。
 試しに英語でPlay catchをGoogleしても、Youtubeでも、例はそんなに出てこない。私の記憶によれば、あのころ、つまり1950年代の少年はキャッチボールをよくやったと思うのだが。あれは戦後の一時期に盛んだった遊びなのだろうか?

  キャッチボールと民主主義

 雑誌「思想の科学」編集会議に、鶴見俊輔さんが寺山修司をゲストに呼んで話しをしてもらったことがある。寺山さんは、キャッチボールと戦後民主主義の話をした。
 爆撃の焼け跡に、一人がボールを持ってあわられる。
 そして他人にボールを投げる。その人はボールを受けて、最初の投げ手に投げ返す。そこに別の人が現れて、3人でキャッチボールを始める。そこにまた別の人が現れる。そうやって何人もの人が、輪になったボールを投げあう。これは争いではない。共同作業なのである。いい球を投げないといけない。助け合いの楽しみだ。
 寺山修司によれば、こうやって戦後民主主義が始まった。寺山修司によれば、民主主義は焼け跡の何もないところで、ボール一つを他人が投げ合ってグループを作っていくことだったのである。でもなにしろ50年以上前のことで、私は22歳だったかな、聞いたことの記憶は、都合のいいように変えられているかもしれない。
 寺山修司は、その方言のアクセントが、当時メディアでからかわれることがあった。中原弓彦(小林信彦のペンネーム)の名前で書かれた「虚栄の市」、もっとも現在出ている「虚栄の市」の作者は小林信彦になっている、その中では寺山修司らしき人間は、徹底的に揶揄してからかわれている。その中の寺山はメディアの中で有名になりたいと動き回る、東北弁訛りの知的でない男である。
 だけど実際に私たちの会議に現れた寺山修司は、背が高く、ハンサムで頭の切れる男であった。メディアで揶揄われている寺山さんを知っていた私は、ちょっと驚いた。もっともいま考えると、演劇的人間である寺山修司は、鶴見俊輔に招かれたので、知的な人間を演じたのかもしれないが。

  日本主義者は中国服を着る

 あるとき天井桟敷(寺山さんが主催していて演劇運動)のティーチインに招かれた。パネラーの一人に日本主義を演じていた男がいて、詰襟の中国服を着ていた。まあこれは日本の中国好きのある種の「伝統」だが。
 それでその人をからかった。私もその男性も若かったのである。
 さっきから日本主義的な言葉を発しているけど、それと詰襟中国服とはどういう関係なのかな?と。その人は、私の言葉を受け流すことができないで、猛烈に不愉快そうな顔をした。
 その時寺山さんは客席にいたらしい。後に友人から伝言がやってきて、あのからかいは、舞台を演劇的にしてよかったよ。というものだった。
 テレビで天井桟敷を見ていて、登場人物が「時代はサーカスの像に乗って、解放された動物園からやってくる」と叫ぶのを聞いて感動した。なぜ感動したのかその時も分からず、今も分からない。
「解放された動物園」ではなくて、「アメリカ」だったかもしれない。でも「時代はサーカスの像に乗って、アメリカの方角からやってくる」だと、寺山さんにしてはちょっと政治的すぎるな。寺山さんの話してくれた焼け跡のキャッチボールが戦後民主主義だというのも、ある種政治的ではあるが、あれは寺山流なんだ。

  寺山さんに教えられて

 野球はインターナショナルである。もっとも北米·中南米·アジアに比べてヨーロッパでは、あまり盛んではないらしい。焼け跡でキャッチボールが始まった時、それは日本でも戦前から行われていたが、野球言語が戦前も今も全て英語であることで分かるように、それはアメリカであった。戦時中は、軍部はそれを全部日本語に、ひけ(アウト)、よし(セーフ)、停止(タイム)にした。傑作なのはバッテリーで、対打機関にした。
 寺山さんの言う焼け跡のキャッチボールは解放であった。それはインターナショナルであり英語であった。しかし同時に戦前から定着していた、日本化されたものだった。キャッチボールは日本語英語であり、ゴロベースに至っては完全に日本語で子供たちに使われた。
 天井桟敷の「時代はサーカスの像に乗って、解放された方角からやってくる」と叫ぶのを聞く時、その「解放された方角」とはどこだったのかな?やってきたものはなにだったのか?キャッチボールとかゴロベースであったのか。寺山さんは、キャッチボールが戦後民主主義だと言ったが、子供の私はそんなことは知らなかった。ただそれを遊んだのである。それは貧乏民主主義の野球·ゴロベースであった。
 あの時、勝ち負けはそんなに重要でなかった。何人かで集まり、ルールだって確かではなく、わいわいと騒いで遊ぶ。そこには上下関係はなく、封建主義はなく、他のスポーツのように審判がいて、正しいことと正しくないことが、明らかにされることもなかった。あの時代を生きたことを幸福に思う。貧乏民主主義を生きたことを幸福に思う。グローブもバットも買えなかったが。