万華鏡物語(10)夜と朝、その間

長谷部千彩

 ステイホームが呼びかけられてからというもの、「ライフスタイルの見直し」が大ブームだ。どの雑誌も軒並み特集はそれで、タイトルはおろか、内容まで似通っている。早起きして、珈琲をドリップして、植物に水を遣り、物の少ない片付いた部屋でMacBookに向かう。適度に運動をし、栄養のバランスを取った食事を心がける。もちろん自炊で。世の中、多様性を謳うわりに、やること考えることはみな同じ。
 まるで正しい夏休みの過ごし方みたいだな、と思う。それも小学生の。
 
 外出自粛は確かに求められたけれど、部屋の中でどう過ごすかなんて自由なはず。そして、通勤から解放されたひとびとにおいては自分でデザインできる時間が確実に増えたはず。なのに、なぜこうまで目指すところが一緒なのだろう。
 時間を無駄にしてはいけないとか、日々を実りあるものにしなければいけないとか、そういった強迫観念にでもとらわれているのだろうか。勤勉というのはもはや宗教なのかもしれない。
 そもそも日本人はなぜ早起きをそこまで推奨するのだろう。社会生活に支障を来していなければ、何時に起きようと、何時に眠ろうと、どうでもいいと思うのだが。確か三島由紀夫は昼夜逆転した暮らしを送っていたはず。ジェームズ・ボールドウィンも執筆は真夜中だった。
 ふと閃く。久しぶりに私も夜型の生活を送ってみようか。飽きたら戻せばいいのだし。
 そして始めた夜更かしが数週間続いている。十年以上、早寝の生活を送っていた身には、これがなかなか新鮮で楽しい。
 
 小さな音量で音楽をかけ、ハーブティーを飲みながら明け方まで貪るように本を読む。
 電話も鳴らない。メールも来ない。眠る街はしんと静か。昨夜はそこに雨の音と自動車が濡れた車道を通り過ぎていく音が加わり、なんとも贅沢な気分を味わった。
 カーテンを寄せ、窓の外を眺めると、信号機が律儀に闇に青く光っている。いつもと違う位置に月が見える。ベランダに出て、春の風を胸に吸い込む。眼下には満開の桜の木。街灯がその花びらを白く浮かび上がらせる。東の方角に目をやれば、遠く重なりあうように建つ高層ビル群の障害灯が赤く明滅している。蛍のようにゆっくりと。清少納言なら、この眺め、このひとときをどう書き綴るだろう。
 気まぐれに広東語の復習をする。気まぐれに古い写真の整理を始める。気まぐれに友だちに長い手紙を書く。夜は気まぐれを優しく許す。
 そして、空が白み始める頃、サイドテーブルのキャンドルの炎を吹き消し、ベッドに潜り込む。私の朝は十一時から始まる。
 
 こんな生活は、いまの時代、決して雑誌に紹介されることはない(ここまで景気が悪くなる前は夜遊びをするひとも多かったけれど)。これも「ライフスタイルの見直し」のひとつなのに。
 先週受けた講義の中で社会学の先生が、資本主義の世界には、自分の時間の中心に労働を置くこと、労働の規律を中心に据えることが無上の価値であるという根深いモラルがあり、それは資本家にとって大変都合が良い。そのモラルとネオリベラリズムという新しい労働イデオロギーが結びついたのが現代社会だ――というようなことを言っていた。私はぼんやりとその話を聞きながら、つくづくその通りだなあ、とうなずいた。ほんとにね、みんな無駄なく有意義に時間を使うことは正しいと信じ切っているものね。頼まれなくても自ら良き労働者になっていこうとするよね、私たちは。

 一方、小学生の姪は、自宅からよりも学校まで近いという理由で、私の部屋によく泊まりにくるのだが、彼女は大抵朝四時に起きる。そして、朝食までの一時間半から二時間、必ずアニメを観る。放課後には宿題があるから、なんとしてもこの時間を活用しなければ、と思っているらしい。それは彼女の何よりの楽しみで、寝ぼけ眼などということではない。目覚ましが鳴るやいなや飛び起きる。先日は、アラームの時刻設定を間違えたようで、夜中の三時半に真っ暗な中、ひとりでアニメを観ていた。このひとは朝の中にいるのか夜の中にいるのか。この早起きは精勤と享楽、どちらがふさわしい表現なのか。その小さな背中を見つめ、私はしばし考え込んでしまった。結論は出ていない。わからない。