何語を使うのか?(晩年通信 その26)

室謙二

 日本人が外国に出かけていく文章を日本語で読むと、この人はそこで何語を話しているのかな?ということが気になる。
 というのは、私がすでに三〇年以上カリフォルニアで暮らしていて、もちろん時々は日本に帰るが、カリフォルニアにいるときは英語が、家の外でも家の中でも日常言語になっているから。
 私には息子が四人いて、そのうち二人は今の妻の息子で、妻もその息子も日本語が話せない。私が日本から連れてきた二人の息子は、中学の途中から、高校、大学とアメリカの学校に行き、英語を教育言語としてきた。そして日本語については、私が読み書きを教えたので、翻訳でも生活ができる。
 家庭では日本語が分からない人がその中にいた時、つまり妻とか妻の息子二人とか、アメリカ人の客人がいた時は私たち日本語家族も英語を使う。しかし息子と私たちだけでいるときには、日本語を使っていた。それが家庭内の英語・日本語の使用ルールであった。
 こういうバックグランドがあるので、日本人が外国に出かけて行った文章を読むとき、この人は何語を話しているのかなあ、と気になる。通訳を使っているのか、外国語がわかっていないのか、カタコトなのか、流暢なのか。
 それとこの頃は、携帯の自動翻訳を使っていて、役に立つと書いている時もある。驚いた。あれは信用すると、とんでもない間違いをおかすことになる。インド・ヨーロピアン言語の間ではいいのかもしれない。それと誰かが、日本語と韓国語の間では使えるよ、とも言っていたが。
 言葉が分からない国に出かけていくときは、もちろんその国の言葉を数週間前から勉強するのがいいけど、その国に着いたら、まず自分は言葉が分からないですよ、と相手にわからせる必要がある。いい加減にわかったふりをするのは最悪だな。わからないけど、コミュニケーションをしたいという姿勢をとること。身振りでもなんでも。そうすれば関係を結べる可能性がある。たとえ乗り物の切符を買うときでもそうです。

  漢字の国に行く

 漢字の国に行くときは、中国とか台湾とか、必ずすぐに書けるノートを持っていく。それに漢字を書いて、相手とコミュニケーションする。日本語風の中国語であっても、大抵はわかる。買い物をするときとか、値切る時も、漢字とクエスチョンマークを使って、相手にも返事をそこに書いてもらう。中国語の発音は全くわからないからね。
 紙がないときは、手のひらを開いて相手に見せて、そこに漢字を指で書く。インクがないのだから動きだけで、漢字を書くわけです。これでもわかることがある。国際会議で中国から来た人と、ロビーで手のひら漢字コミュニケーションで「話をしていたら」、そばで見ていた津野海太郎がわらっていた。
 もう二十年以上前に、妻のNancyと台北から台南まで、台湾汽車旅行をしたことがあった。汽車が駅に止まったり、駅をゆっくりと通り過ぎたりするときに、素早く駅の名前を漢字で「読む」。私は中国語の汽車の地図を持っていたから、それでいま私たちがどこにいるか確認した。まだ台南まで一時間以上あるなあ、なんてNancyに言うと、感心して「Kenjiが中国語ができるとは知らなかった」と言う。そうじゃないの、中国語は全くできないけど、漢字を知っているから、それを使って切符を買ったり、駅の名前とか次の駅の名前とか、中国語の地図が読めるのさ。と言っても、漢字の機能が分からない外国人だから、その意味がわからなかった。
 もっとも、このように漢字に頼るのはヨロシクないと言われたことがある。
 
  漢字は特別のものではない

 このエピソードを書こうと思ったら、中国人とか日本人が漢字の機能に頼りすぎるのは良くない、漢字が特別の言語の道具だと思うのも良くない。と私に言ったヨーロッパ知識人の名前を忘れている。もの忘れが激しいんだ。認知症の初期だと、数年前に医者に言われてショックを受けた。妻に、Kenjiはこの頃物忘れが激しいから、また医者のメモリーテストを受けましょう。と数日前に病院に連れて行かれた。結果は数年前と変わらない。ちょっと安心。でも妻は、納得しない。
 それでは元に戻り、名前を思い出せないそのヨーロッパ知識人は、本をドイツ語とフランス語と英語で書いて出版していて、カソリック司祭のバックグランドだった。彼はカソリックの信仰は離れていると思うのだが、私と話した時は国連の援助で日本で研究休暇を取っていて、友人のダグラス・ラミスの紹介で、下駄屋の二階にガールフレンドと下宿していた。
 彼によれば、カトリック司祭というのは自分では辞められないとのことで、バチカンが司祭ではないと決めないといけないらしい。私はまだバチカンにそう言われていないから、きっとまだ司祭でしょう。でも司祭のルールは守っていない。セックスは禁じられているけど、ガールフレンドと暮らしているしね。
 もっとも私のカトリックの友人によれば、結婚している「元カトリック司祭」というのは、たくさんいるらしい。でもバチカンは、それを司祭のルールを守っていないとして破門したりしないらしい。というのは、いずれカトリック司祭も結婚してもいいということになる可能性もあり、その時のことを考えて破門しないのだ、とのこと。バチカンは少なくとも数十年、あるいは数百年の単位で考えているのさ。とそのカトリックの友人は言っていた。
 元カトリック司祭は、日本人とか中国人は漢字を特別だと思いすぎだよ。と言う。あれは他の言語の文字と同じように、単なる書き言葉コミュニケーションの道具にすぎない。言葉というのは、それで伝えられる内容が重要なんだから。内容を伝える言葉は、内容が伝わったら捨て去られていいものだ。
 この話を聞いたときに、なるほどこれは普遍主義だな、と思った。言葉の向こうに普遍的世界があって、それを描いたい伝えたりするための道具が言葉なんだ。その道具を普遍的世界の内容と混同してはいけない。漢字を使う民族は、漢字を特別なものと崇めているけどね。

  道元は外国語の「使い手」だったらしい

 先月は家族とメキシコ旅行をしていた。そのときに道元の本を何冊か持っていった。そしてときどき、スペイン語と英語が飛び交うプールの、パラソルのしたで読んでいた。道元も、何か国語の中で生きていた。
 道元は天皇の家系につながりがあり、子供の頃から将来、天皇システムのエスタブリッシュメントになるべく教育をうける。だから日本語の古典も、論語とか経典とかの古典中国語、当時の中国(宋)の話しことばも学び、中国に出かけて行ったときは、それらを手に持っている。そして船で中国についても、まず船の中で中国人から中国語を習ったり話したりしている。道元は中国語に堪能であった。「典座経典」の最初に、まだついたばかりの道元が中国語を話している。あるいは、漢字を紙に書いて話していたのかもしれない。典座(てんぞ)は寺の料理人のトップのことで、道元によればそれは仏教の大事な修行の一つである、とのこと。別のところで道元は、仏教と食は「等」であるとも書いている。
 道元は中国に本当の師を探して四年いたが、最後に如浄(にょじょう)に出会う。その時のことが「宝慶記」に書かれている。如浄の弟子が寂円(じゃくえん)であり、彼は道元が日本に帰った後に追いかけて日本にやってくる。そして日本人で弟子になった懐奘(えじょう)と中国人の寂円と道元の三人が日本で禅(曹洞宗)を始めるのである。曹洞宗は今では大きな禅宗だが、その時はまだ数人の集まりであった。
 その三人の集まり、曹洞宗の始まりの三人は、何語を話していたのか?
 三人とも当然、書き言葉の古典中国語は堪能であったはずだが、三人の間では、宗音の中国語を話していたと思う。少なくとも道元とまだ日本にやってきたばかりの寂円は中国語で話していた。懐奘も寂円とは中国語を使っていただろう。道元は中国語で仏教について書いていたし。つまり始まったばかりの道元の日本での宗派は、中では中国語を話し書き、外に向かって、日本人の僧と信者に対しては日本語で呼びかけていた。
 道元の仏教は、中国で如浄に学んだとしても、中国とも日本ともインドとも離れた普遍性を持っている。その普遍性によって、道元の仏教はアメリカでも、道元の使っていた言語(古典中国語、宋の中国語、日本語)を離れて、英語で広まっていく。元カトリックの司祭が言っていたように、言語から離れた普遍性を持っていた。
 師の如浄は道元に、日本に帰っても権力に決して近づくな、と言う。如浄は道元がロイヤルファミリーの出であることを当然知っていたはずだ。日本に帰ってきた道元は、日本人の弟子懐奘と中国人の寂円の三人で、貧乏に新しい仏教を始めた。お互いに中国語で話しながら。
 メキシコでプールサイドで道元を読みながら、多国語の道元について考えていた。私も多国語の中で死ぬのだからなあ。と思いながら。