私は二十一歳だった。精一杯の背伸びをしていたのである。
私は知的な人間であると思っていた。タダたくさんの本を読んだだけのことであったが。神田神保町の書店街が私の書庫であって、どの書店のどの棚になんの本があるか記憶していた。自宅から都電に乗って神保町でおりて、書店を回って私の本を棚からとって読めばいい。
頭を振ってみると、活字が頭の中でガラガラと鳴ったのである。
そして鶴見俊輔に会ってみたいと思った。
片桐ユズルは、私の父親が自宅で主催する、意味論と英語教授法の研究会に参加していて、同時に思想の科学の記号の会にも参加していた。ユズルから、記号の会の鶴見俊輔のことを聞いていたし、すでに俊輔の本を読んでいた。
なんで会ってみたかったのか? 自分の中に危機があったからである。
それは特別な危機のように思えたが、いまから思えば単なる青年期の危機である。そして話に聞く鶴見俊輔は、私のその危機を、繰り返せば私はそれは特別の危機だと思っていたのだが、助けてくれると思ったのだろう。それで会いにいった。五十年以上前のことである。
ずっとあとになって、津野海太郎が鶴見俊輔を紹介してくれ、というので会わせたら、帰り道に津野さんが「人間離れした頭脳だ」と言った。不思議な表現だったがあたっている。最初に気がつくのはすさまじい記憶力で、つぎに気がつくのは、遠く離れたものを結びつける想像力である。
最初のころは、鶴見さんが何を言っているのか分からない。私が精一杯背伸びをして発言すると、はっはっはっ、おもしろい。ムロさんの言った、何々となになにの関係なんか、ユニークな指摘ですよ。と言われても、へー、私はそんなことを言ったのかと思う。俊輔は私には面白い人であった。大インテリをつかまえて面白い人と評するのは失礼かもしれないが、実際ワクワクするぐらい楽しい。だけどわからない。
当時、記号の会は折口信夫(釈迢空)を読んでいた。
折口もよくわからない。でもそこで上野博正に会った。上野さんは江戸っ子であって、産婦人科医にして飲み屋を経営して、新内をうたうということだった。何回目の記号の会のあとに、みんなで浅草に行こうということになった。それまで浅草なんかに行ったことがない。東京山の手の少年だったのです。
縁でこそあれ末かけて
上野博正が案内して、たしか一階がお好み焼き屋だったような気がするけど、そこの女将に、ちょっと二階を借りるよと気安く言ってあがっていく。それについて、俊輔さんも私も上がっていく。そして、なんとかサンをすぐに呼んでよ、と上野さんは言って畳に座って待っている。新内の仲間だそうだ。
現れたのは三味線を持った若い芸子さんで、彼女がちょっと三味線の調子をあわせる。それから上野さんが、頭のてっぺんから出すような声で、体をよじりながら、「縁でこそあれ末かけて、約束固め身を固め、世帯固めて落ち着いて、ああ嬉しやと思うたば、ほんに一日あらばこそ」と歌い出したときは、私はぶったまげてしまった。まずその声の出し方である。生まれてはじめて、新内というものを聞いたのである。これはあとで調べると、心中の話なんだな。五十年以上まえのことだが、このシーンをはっきりと覚えている。
鶴見さんは大喜びで、例のワッハッハである。私は二重に驚いた。上野さんの、からだをよじって出すおんなの声色の新内と、鶴見さんの態度にである。ハーバード大学で哲学を学んだインテリが、こんなものに大喜びするとは。インテリというのは、こういうものを否定すると思っていたのである。
私の両親はともに大正デモクラシーの時代に青春と大学を経験していて、家族に反発して駆け落ち同然に大阪から東京に走り、家族制度に反対して反封建主義であった。特に戦争中の軍部の日本主義の利用を経験したあとでは、アメリカ輸入のデモクラシーからではなく、自分たちの経験から封建主義に反対することと、見合い結婚に反対することに徹底していた。特に母親がそうである。古い日本文化の否定である。
新内なんかとんでもない。私の経験から、インテリというものは日本の古い文化を否定するものだと思っていた。ところが俊輔は、ワッハッハの大喜びなのである。インテリがこういうものを喜んでいいのかなあ?
また別の記号の会のあとに、参加者で小さな神社を訪ねたことがあった。私はそれまで神社仏閣に入ったことがなかった。自宅には神棚も仏壇もなかった。両親は戦争協力をした既成の仏教も神道も信用せずに否定していた。ずっとあとになって、大学を定年退職してから、父親は親鸞に従う仏教徒になった。もっとも戦争責任のある既成の仏教を信用しないので、お寺にはいかない。僧侶にも会わない。亡くなる前に手書きの遺書を書いて、私は仏教徒なので、私の死を日本の僧侶と寺に触らせるな、とのことだった。
母親も神社に出入りしない。近くに靖国神社があって、あるとき母親は「あそこに弟たちが祀られているのよ」と言ったが、絶対に入らないのである。神道が弟たちを殺したと思っていたのである。それで私も神社仏閣に、二十歳をすぎても入ったことがなかった。そんなところに入るのは、両親に対する裏切りである。
ところが俊輔さんは、さっさと神社に入って、紐を引っ張って鈴を鳴らし、賽銭をなげいてれ、お辞儀をして柏手を打った。私は立ち止まって、呆然とそれを見ていた。
俊輔さんは振り返ると、即座に私の状態を理解して、そのへんは素晴らしい洞察力なんだな、ムロさんお金はこう投げ入れて、鈴をこう鳴らして柏手はこうする、と投げ入れるお金もわたしてくれた。リベラルなインテリがこんなことをしてもいいのか、と思ったが、鶴見俊輔を尊敬していたので、真似をした。こうやって私ははじめて神社の境内に入り、日本人みたいなことをしたのである。
俊輔は生きている、ということにした
俊輔が亡くなったのを知ったのは、孫たちといっしょのカリフォルニアの山奥のキャンプ地であった。そこでは朝の一時間だけ、オフィスでWiFi経由のインターネットが使える。ポケットにiPhoneを入れてオフィスの前を通ったら、iPhoneが自動的にWiFiにつながって、俊輔が亡くなったというニュースを受け取った。私がそれを読みながら暗い坂道を上っていくと、突然に鹿が近寄ってきた。
次の日になっても、鶴見俊輔が死んだという気がしない。
それで俊輔のお気に入りだったNancyに、俊輔が死んだという気がしないんだ、と言ったら、だったら「俊輔は生きているということにしたらいいじゃない」と言われた。
だから俊輔は、まだ生きているのである。