しもた屋之噺(216)

杉山洋一

大晦日の東京の夕日は久しく見られなかったようなうつくしいものでした。一面が暗い赤に染まり、吹きすさぶ冷たい風で空気がすっかり浄化されて、澄み切った風景の奥で、山々の黒いシルエットが鮮やかに凛と浮き立つさまは、実に清々しいものでした。

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12月某日 ミラノ自宅
忙しい日本からイタリアに戻り、日がな一日イタリアの学生を教えていると、心が落着く。祖父から教会つきオルガン職を引継ぎ3代目のフェデリコと話す。同じレパートリーばかり同じ要領で即興し続ける生活に嫌気がさして、フェデリコは作曲を学びはじめた。

彼曰く、得てしてオルガニストは神父とは仲が悪く、信心深くもならないと言う。神父は押しなべて吝嗇だと殊更に強調するのは、相場はミサ一つ担当して25ユーロにしかならず、領収書も契約書も神父から発行されない不法就労も多いそうだ。この条件では、教会を複数掛け持ちしてどんなに稼いでも一か月750ユーロ、9万円強にしかならず、それでは食べられないので、兼業を余儀なくされる状況は、ドイツやイギリスとはまるで違って酷いと嘆く。その上、聖歌はプロテスタントの讃美歌を流用し、最近はオルガンを使用せず、ギター伴奏も多いそうだ。アメリカンスタイル。

葬儀ミサは殆ど形態に変化がないので神父と折合いがつくが、結婚ミサは、しばしば神父と揉める。宗教と無関係の曲の演奏リクエストが多く、神父が反対するらしい。

日曜ミサを無理に一日に4回5回と入れて、合唱リハーサルを一週間のどこかで1回やって、一週間の給金は50ユーロ程度にしかならない。それも税金に申告できない不法就労だったりするから、とてもじゃないが、と嘆息を漏らす。

因みに、オルガンの稽古は真夜中に一人教会を開けて行うそうで、彫像やら壁や床に犇めく聖人や有力者たちの墓の犇めくなか、恐いと思ったりした経験はないらしい。Studiare con spirito! 気持ちを高めて練習するんだ、と笑うのは、spiritoとは伊語では亡霊の意味にもなるから。

亡霊と一緒に勉強する、というと、気持ちを新鮮に保って、みたいな意味に使われる。

彼曰く、葬儀ミサは大歓迎で、段取りも単純で短いし、棺から亡骸が見えることもなく、特に死者を意識することもないという。何しろオルガニストの演奏場所は、通常参列者よりずっと高いところにある。ともかく、信心深いオルガン奏者などいるわけがない、とフェデリコが力説するのは愉快だった。

12月某日 ミラノ自宅
高校からの友人、年森宅を訪れて、彼女が携わっている音楽療法のヴィデオを見せてもらう。グランドピアノに癲癇の少女をのせて、二人で即興劇をやる。学校でもどこでも、突然癲癇のショックに襲われて記憶が抜け落ちる。先生からも友達からも彼女は「特別だから」と扱われているが、それが彼女の自信喪失に繋がる。小さな犬のぬいぐるみは、彼女の分身。この犬は「わたしは特別なんかじゃないの、わたしは特別なんかじゃないの」と即興で節をつけて繰返している。

昨日は東京で大石君と辻さんの新作本番だった。2回程練習の録音を聴かせていただいたが、二人ともそれぞれの世界が実に豊かで、作曲者が口を挟むこともあまりない。本番の演奏を聞いた垣ケ原さんより便りが届く。歌舞伎の冬をおもわせる和太鼓からはじまり、春夏をすぎ、最後は「奥山に紅葉ふみわけなく鹿の声きくときぞ秋はかなしき」を想起したとのこと。演奏家も聴衆も、作曲者よりよほど感受性が豊かかもしれないし、演奏者の感受性が聴衆を直接感化することもあるだろう。

12月某日 ミラノ自宅
スタンザの譜割りをしてから昔の録音を聴くと、楽譜と多少違う部分もある。これは武満さんが望んだのかもしれないし、単に演奏が困難だったのかもしれない。実際演奏を聴いて作曲者が変更することも普通にあるし、曲者の趣味そのものも時間とともに変化してゆく。作曲時の演奏を蘇らせるのは、試みとして意義もあるし興味深いが、実際はその作家の人生の、ほんの一部分のみを切出すことになる。勿論それが悪いというのではないのは言うまでもないし、演奏の質とは無関係だ。

先日の京ちゃんの新作でも、fpとsfの表示でアタックについて、二人で意見が割れた。fpのfは発音の固くないsfに近いのでは、というと意外な顔をされた。イタリア語話者の演奏家なら、sfと書かれていれば、このsfはどの意味かとしばしば確認する。Sforzareは強調の意味だから、fpにはならない。全体の強弱がpの部分に、sfと書かれていれば、イタリア語としては、全体的にpの部分で、sfはpのなかで強調されるべき音、という意味になるが、音楽用語の慣用表現として、fpに近い表現を求める作曲家もいるだろう。つまり、何を強調するのか、演奏家の間で、意味を統一させる必要がある。尤も、相手がイタリア語話者でなければ、このニュアンスはわからないので、自動的にfpと同義と理解されるだろう。

先日カセルラを演奏した際、楽譜にAlquanto allargandoと書いてあり、このAlquantoの意味を巡って、演奏者間で意見がわかれた。意味としてはAssaiやAbbastanzaに近い言葉だが、現在は使わない表現で、「かなり」「随分と」という曖昧な意味をもつ。MalipieroでもPiuttosto lentoという意味としては似たような指示があり、これもオーケストラ団員通しでそれぞれ意見が割れた。

閑話休題。武満作品であれば、結局楽譜に書かれた通りに演奏するよう、努めるしかないだろう。録音でこうやってい、というのは、作曲者本人から直接聞いたわけでないのだから、確証としては弱い。たとえ、それが例えば晩年の武満さんの趣味と違っていても、残された楽譜を尊重するしかないだろう。案外、作品作曲時の武満さんの意図には、より忠実な演奏が実現できるかもしれない。

尤も、悠治さんや京ちゃんのように、作曲者が元気なうちは、彼らの意見を反映させた演奏を続けてゆくに違いない。一見楽譜と違っているようでも、たとえ彼らがそこにいなくても、彼らの意にそぐう演奏を目指すことになるだろう。ダブルスタンダードで矛盾していても、文化の形成とは元来そういうものではなかったか。

12月某日 ミラノ自宅
波多野さんのプラテーロを繰返し聴く。演奏の誠実さ、詩の翻訳の美しさ、感情に流されぬ、客体化された朗読の美しさが相俟って、ひたひたと作品の思いを伝え、プラテーロの魅力が凛と際立つ。カセルラに学んだカステルヌオーヴォ=テデスコは、日本ではピッツェティの高弟と紹介されることが多いが、カセルラの影響も等しく顕著だと思う。尤も、本国イタリアではピッツェッティとカセルラでは、圧倒的にカセルラの方が評価が高い。

12月某日 堺ホテル
堺で御喜美江さんの演奏会にうかがう。満席の観客が演奏に集中する姿に感銘を覚える。演奏のすばらしさは言うまでもなく、御喜さんはお話も実に上手で、演奏の緩急を活かした、効果的なプログラムと、聴衆の感情にしみわたるような音楽で充足感を覚えて帰途につく。
聴けば、聴衆のほとんどが堺地域の方たちだという。百舌鳥、古市古墳群がユネスコ世界遺産に指定されて、堺市民が自らの街の歴史、文化に目覚めたタイミングでもあるのかもしれない。

武満作品演奏会の準備において、演奏者全員が3日間堺に合宿する恰好になったのがよかった。演奏姿勢が共有できたし、リハーサル以外の時間も演奏者通し共に過ごしたりして、親睦も深めた。何より武満さんの60年代室内楽作品をこれだけ纏めて勉強したこともなかったので、自分にとっては、またとない貴重な機会となった。一見複雑なオーケストラ作品よりも、室内楽の方がずっと難しい。

12月某日 堺ホテル
60年代の武満作品を、まとめて実演できたことは、限りない喜びだ。残されている録音一つだけで音楽を判断するには、音楽が豊か過ぎる。聴こえる音にも対しても録音ではバラつきが生じるだろう。実演はやはり作品に空間性が生じる。何しろ、先日の悠治作品でも痛感したが、半世紀前の現代作品は、音の説得力がまるで違う。音の質量も現在とは比較にならないほど高いのは、これはどういうわけだろう。思わず自らを省みたくなる。

その音の説得力は、演奏者にも大きく影響を与える。演奏は極めて困難だったりするが、音の力が、演奏家を文字通り惹き込むのだ。そうして生まれる演奏は、聴衆に対する音楽表現としても、説得力が極めて高くなるのは、当然かもしれない。

今回、堺での武満ミニフェスティバルは3日通して、全て満席だったのにも愕いたが、一日目の60年代室内楽の演奏会でも、聴衆は最後の一音まで、集中を欠くことはなかったのに、心底驚嘆した。聴衆の潜在的な文化度、民度の高さと、作品がもつ世界の深さがあって、初めて成立する関係だったとおもう。

二日目の合唱演奏会では、歌っている合唱のみなさんの感動が、そのまま聴衆に伝わってくるようだったし、三日目、真樹さん、荘村さんとcobaさんの演奏会最後は、スタンディングオベーションで幕を閉じた。とても大切なものの手触りを実感させられる堺での滞在となった。

12月某日 町田実家
ここ暫くずっと気になっていて時間が見つけられなかった墓参に出かける。朝早く、三軒茶屋自宅脇から大森駅にバスで出て、東海道線で茅ヶ崎へ向かう。

仏花を探して、駅前の路地をしばらく徘徊しつつ、強烈な郷愁に襲われる。相模湾沿岸の鄙びた風景は、幼少から数えきれないほど通った街の潮の匂いに繋がってゆく。

この辺りは母の旧姓「三橋」の苗字が非常に多く、墓石はどれにも「三橋」と書いてある。異字で「三觜」と書いて区別しているものもある。うろ覚えのまま、花を手向け線香を焚き、念のため母に墓石の位置を確認してもらったのは、既に横浜まで東海道線で戻ったところだった。

今度いつ来られるかわからなかったので、茅ケ崎に戻り、母から聞き伝えの墓石を訪れると、白い杖をついた小柄の老人とその家族らしき人が7、8人集っている。

愕いたことに、操さんと言う88歳のこの老人は、母が幼いころに生別れた近しい従弟で、母が24歳くらいのときに彼の家を訪ねたとのだという。眼はよく見えないようだったが、「千恵子さんの住所は5の10でしたっけ」と実に闊達で、鮮やかな記憶力に舌を巻いた。「5の10」は、昔住んでいた住所だ。息子さん曰く、操さんは最近は英語を学んでいて、「自分の父親ながら、感心しますよ」と笑った。慌てて皆で写真を撮り、連絡先を交換して、待たせていたタクシーに飛び乗り、母に報告の電話をかけた。その瞬間ふと気が付いて、運転手に寺に戻ってほしいと懇願した。ウナギの寝床のような、車一台漸く通れるほどの辻を、そろそろとバックしながら寺まで戻ってみると、操さんたちもちょうど寺を出発するところだった。母に電話をつないだまま、慌てて操さんに駆寄り、直接二人で話してもらうことができた。

「もう兄弟で残っているのは僕だけですよ」と電話口で操さんは明るく母に話していた。

その表情は寂しさとか悲しみより、もう兄弟たちは皆とうにあちらで落合って楽しくやっているが、自分だけがまだ居残りでねえ、でもあちらで揃って待っていてくれるからねえ、という、安心感なのか、さっぱりとした口調が印象的だった。素敵な齢の重ね方に感じた。

昭和10年だったか11年だったか、母が生まれ直ぐに病死してしまった祖父は、最早、墓の近くにはいない気がしていたが、吸寄せられるように巡り合った操さんの家族を前に、自らの早計に恥じいる思いがした。

(12月31日町田にて)