むもーままめ(15)豪栄道の断髪式

工藤あかね

実は少し迷っていた。コロナ禍で延期になっていた元大関・豪栄道の断髪式に行くか、行かないか。何を隠そう、豪栄道豪太郎はわたしの推し力士だった。迷っていた、というのはコロナ禍、ということもあるけれど、豪太郎さんの髷に鋏が入るのを見て、取り乱すかもしれないと思ったからだ。

コロナに関しては、国技館はかなり気をつけてくれている、と思う。大相撲の本場所が行われる時は、扉は開けっぱなしで、風がびゅうびゅう入ってくる。そんな環境なので、まず換気はしっかりしている。場内では飲食も制限されているし、こまめに手を洗えばリスクはだいぶ減らせる。観客は、推し力士の名前が記されたタオルや横断幕などを掲げて無言で応援する。横綱が土俵入りしても「よいしょ〜!」の掛け声もなし。一観客としては、喉まで出かかった声をぐっと飲み込んで腕を組み、じっと土俵を眺めるしかない。稽古場や土俵下の審判席で、親方が弟子を見守る気持ちって、この感じに近いんじゃないかな…。

結局、断髪式には行った。豪栄道ファンとしては、これまでの相撲人生に区切りをつけ、武隈親方として新たな生活が始まる、その瞬間に立ち会わなければならない。この儀式は豪栄道本人だけのものではない。ファンも、髷が切り落とされる瞬間をしっかりと見て、豪栄道は終わり武隈親方が始まるのだと自分に納得させるために必要なプロセスなのだ。

当日の朝、なぜか緊張しながら両国駅に降り立つと、触太鼓の音がかすかに聞こえてきた。舞い上がっていたのか、お相撲さんを見かけて、「今日はおめでとうございます」と口走ってしまったが、ただの出席者であって豪栄道の境川部屋関係者とは限らないから、恥をかいていたかも。

豪栄道の母校、埼玉栄高校の相撲部らしい少年たちも来ていた。彼らにとって豪栄道センパイは憧れの人なのだろう。そして国技館の門をくぐると、紋付袴の堂々たる姿で豪栄道センパイがお出迎えしているではないか。ぎゃーーーーー!!!最後のまげ姿〜〜〜〜!!こんな姿を見たら、膝から崩れ落ちるに決まっている!!!!

ご本人と写真が撮れるのは後援会の関係者のみらしい。だから私は、館内設置の豪栄道パネルと2ショットを決めた。すぐそこに本人がいるのに変な気分だけれど、それは致し方ない。

館内を進むと、埼玉栄高校出身の現役力士たちがぞろぞろ。この日同行してくれた筋金入りの相撲ファンである友人は大興奮で写真や動画を撮り、「国技館は我々のディズニーランドですからね!!」と、名言を放った。

さて断髪式は引退力士のまげに鋏が入るだけではなくて、さまざまな催しが用意されている。この日は、触太鼓からはじまり、幕下力士の選抜トーナメント戦があり、それから十両土俵入り。

そのあとは、相撲の禁じ手をコント形式で行う初切(しょっきり)、十両取り組み、美声のお相撲さんたちが朗々と歌う相撲甚句、豪栄道後援会会長の挨拶、そして断髪式。この日は、400人くらいの鋏が入った。そして新妻とお子さんからの花束贈呈があり、横綱・照ノ富士の綱締実演が入る。

幕内力士と横綱土俵入りの中入りのあとは、櫓太鼓の打ち分け(この日は名手・太助の実演)がきて、幕内の取り組みと弓取り式が行われ、最後に武隈親方になった元・豪栄道がお礼の言葉を述べてお開きとなる。

胸いっぱいの内容である。だが実際のところお酒の販売はしていないし、お弁当も飲み物も指定の場所に移動しないと口にすることができないので、場内で一連の催しを見ている限り、お腹いっぱいになることはありえない。見どころしかないような会なので、いつ食事に抜けるかは結構むずかしい問題だ。

友人たちは、断髪式が延々と続くことを見越して、そのタイミングでお弁当を食べに行くと言う。だが、彼女たちいわく、わたしにとっては断髪式こそがメインだから、先に食べておくのが最良なのではとアドバイスしてくれた。それに従い、一人で最後の「豪栄道弁当」(国技館には大関以上の力士のプロデュースによる力士弁当が売られている)を黙食した。

最後の豪栄道弁当、なんとなく以前食べたものと揚げ物の形状が違う気がしたけれど、まあそれは大した問題ではない。推し力士がいる人間にとっては、そのお弁当の具がどうとか、美味しいかどうかではなく、そこに”豪栄道”とか”貴景勝”とか書いてあることこそが重要なのだ。

この日は豪栄道グッズも買った。よく考えるとどうしても欲しいものではなかったのに、結構散財した。けれど一種のお祝儀だから、これでいい。

豪太郎さんの入場、着席。ついに断髪式が始まった。他の力士の断髪式では、鋏が入る時に涙ぐんだりする名場面もあるので、豪太郎さんの表情を見ていたが、人形焼のようなベビーフェイスは誰が鋏を入れても判を押したように変わらない。他の力士の断髪式では、正面・向正面・東西をくるりと一周したのを見たこともあるので今日はどうなるかと観察していたが、豪太郎さんは最初から最後まで正面を向いていた。正面には舞妓さんがずらりと並んでいたり、ジャニーズのタレントを応援するような横断幕を掲げる人々や、桃色の豪栄道ハッピを着た女性もいる。いろいろな応援の仕方があるものだなあと、ぼうっと眺めた。

後ろに回ってみると、切られた髪の毛が緋毛氈の上に落ちていた。これはこれで、またいい眺め。師匠の境川親方の止め鋏の時は後ろから見ていたから、豪太郎さんの表情はわからない。だが、ほぼ人形焼のベビーフェイス状態だったのだろう。なぜなら、その瞬間をの写真をニュースで見たが、同じ顔だったから。

一連の催しの最後、武隈親方となった元・豪栄道がタキシードにオールバックの髪型で再登場すると、会場がどよめいた。体一つで戦い続けてきた人が!タキシードを!着ている!謝辞を述べる豪太郎さんの言葉は、もらったパンフレットに書いてあった言葉とほとんど同じだったけれど、そんなことはどうでもいい。この一連の行事を見届けたのだから、わたしにとって、とても良い一日だった。

帰り際、友人が言った。
Q:「こんなに力士に夢中になっているのを見て、旦那さんはやきもち焼いたりしないんですか?」
A:「大丈夫です。実害がないとわかっているみたいです。」

一日中、お相撲さんや親方たちを見て過ごしたせいか、体格の大小の感覚が変わってしまった。帰宅して夫を見たら、とてもスリムな人に思えたのだ。やっぱり、良い一日だった。