むもーままめ(4)アラビアの女の巻

工藤あかね

 アラビアを旅していた時のことだ。私は列車のボックス席に座り、開けはなたれた車窓の向こうに広がる金色の大地を眺めていた。ときおり強い風が吹いて、乳白色のカーテンがねじれたり、ひらひらと不規則にはためくように、砂ぼこりが勝手気ままに舞いおどっているのを見て、美しいと思った。

 車内は聞き慣れぬ言語で満ち溢れている。声のトーンだけでは、彼らが怒っているのか、それとも楽しんでいるのか、私には皆目見当がつかない。ひとことも言葉がわからないというのに、不思議と心は落ち着いている。おそらく不安な気持ちよりも、誰も私を知る人がいない国にいる、という気楽さのほうが優っていたのだろう。

 私の座るボックス席は4人がけだったが、私はとなりの座席に荷物を置いて、ゆったりと座った。はす向かいには、もうひとり乗客が座っていた。一見して華やかな女性だと思った。とはいえ、顔かたちが見えたわけではない。頭から足先までを覆うように濃い紫色の衣服を身に纏い、肌がちらちらと見えるのは手首から先と、足指のみだ。光沢のある滑らかな手肌は、黄金のブレスレットといくつもの豪奢な指環で飾られている。俯き加減の顔はすっぽりとベールに覆われて、目のあたりだけが深い影になっている。用心深く、身を屈めるような姿勢だが、時おりベールや裾の乱れを正す指先はきれいにそろっていて、仕草のひとつひとつに気品が見え隠れしている。敵に追われ、身分を隠して逃げている高貴な人のようだ、と私は思った。

 車内を物色するようにして通路を歩いてくる男がいる。男は肩越しに右へ左へと目をぎらつかせながら、ボックス席にどんな人々が陣取っているかを瞬時に判断して、興味がないとみるや軽く鼻息を立てて、次の一歩を踏み出している。私は、気が気ではなくなった。斜め前に座っている高貴な女性は、もしかするとあの男に追われているのではないか。

 男は確実にこちらへと近づいてくる。そして私たちのボックスの横で立ち止まると、射たれたような顔つきで固まった。今しがたまでギラついていた目つきが、みるみるうちにいやらしく、柔和なものに変わる。太い眉毛を目からクッと離して、あの高貴な女性の耳元に何かを囁きはじめた。
「やめて…」
私は心の中で叫んだ。くだんの女性は頑として男と目を合わせようとしない。男は身を低くかがめて、女性の顔の周りにまとわりつき始める。私はその気色の悪いやり取りを見ているだけで、何もできずにいた。

「誰かこの方を助けて。」
心の中で強く訴えながら立ち上がって車内を見回すと、鮮やかな青い布を頭から巻きつけた女性がこちらへ近づいてきた。青い服の女性は、男にまとわりつかれて身じろぎしている紫色の女性を一瞥してから、流暢な英語で私をなだめるように言った。
「この国では、男と目を合わせると処罰されるのよ。彼女は目をそらし続けるのが上手だから、きっと女優ね。私たちのように普通の女はこうしているわ」

 青い服の女性はいったん私に背を向けると、頭からベールをはずし、ゆっくりと向き直った。目もとが異様に妖しい光を放っているのでよく見ると、両目ともトパーズ色の義眼が嵌まっている。
「コンタクトレンズと同じよ。慣れると取り外しも楽でいいわよ。こちらからはちゃんと見える上に、私がどこを見ているかは、外からはわからない。」
 青い服の女性はさらに、肩から背中にかけて服をはだけてみせた。背中には、無数のみみず腫れや切り傷のあとが、痛々しく残っている。
「もう二度とこうならないために。あなたも…気をつけて良い旅を。」
 そして青い服の女性は、ゆっくりと口角をあげて、寂しげに微笑んだのだった。
 
……いつか見た、夢の話である。