すぐ行方知れずになる人、というのがいる。たいてい親族のなかに一人はいたりするものだが、私のオジサンという人がそうだった。訳あって高校をドロップアウトして以降、定職についたことがなく、なにをしているかはいつも不明。毎年2月ごろふらりとやってきて、私たちきょうだいにお年玉を渡して、季節外れの雑煮を母に作らせて食って帰る。なぜ2月かというと、正月を迎えてから、「おお、正月か……」と気付き、それから日雇いに出かけ、お金を作ってから我が家に来るからである(私のきょうだいは6人だから、お年玉の算段は簡単ではないのである)。そのため子どもたちは、正月早々にオジサンが来ない、ということは知っているのだが、「今年はいつになるのかねぇ」と楽しみに待ち構えるのである。
そのオジサンが、ある時、ガリガリに痩せてふらりとあらわれた。母に「コーヒーをくれ」と言って、砂糖をたっぷり入れてぐるぐるかき混ぜて、美味しそうに飲んでいる。何かの病気なのかと心配する私に、ボソリと、「人間ってさ、メシを食わないとどうなるのかと思ってさ。2週間、何も食ってないんだけどさ。けっこう平気なもんだな」と言って、コーヒーをすすっている。それから「なんか食わしてくれ」と言って、母に雑煮を作らせ、旨そうに食べた。そのあと、最後に行方不明になってから10年は経過しているので、この世を放浪しているとはあまり思われない。
いつ現れるか予測がつかないのに、なんだかふと気づくといたりする、ふらふらしている人の代表格が、私にとってのカウチさんである。カウチさんは、私にTwitterをやれと言った人である。「なんか戸田さん、向いてると思うんですよねTwitter」というのである。「賑やかな往来に面した喫茶店でおしゃべりしているみたいな場所」なのだとカウチさんは言っている。
カウチさんがはじめて我が家へ来たのがいつだったのかは思い出せない。確か7、8年前に一度来たはずだっだが、そのときカウチさんがあたりまえの大人ぶった手土産などを持参したはずはないが、そこで何時間滞在し、何の話をしたのだったかすらも覚えていない。そのあと来たのは、彼女が編集した本を持ってきたときである。カウチさんは長年、個人的に河田桟さんの本の編集を担当しているのだが、『馬語手帖』『はしっこに、馬といる』に続く3冊目となる『くらやみに、馬といる』(すべてカディブックス刊行)を作っていたとき、突然、表紙候補の2枚の写真を送ってきて、「どっちがいいですかね」とわたしに聞いた。わたしは自分のそういうものを選ぶセンス(ある意味での思い切りの勇気)が自分にないことを知っているので、娘にたずねた。暗闇のなかでたてがみらしき毛をぼさぼさとさせた馬のぼんやりした写真と、数頭の馬が薄暗がりに佇んでいる写真である。娘は、前者のぼんやり写真をゆびさし「こっち」と即答した。それは馬であるということがわかりやすい写真ではないのだけれど、「くらやみと言うのだから、馬の形がわかることは必要ない」、というのが娘の答えだった。そういうわけで、私がその本を5冊ほど購入したいので郵便で送ってほしいと頼んだら、「私は郵便を送るのは苦手だから、ポストに入れに行きますね」とカウチさんはなぜか一方的に言って、私が知らないうちに来てマンションの郵便受けにその本を詰め込んで帰ってしまった。私が帰宅すると夫が、なにやら不審な顔をしている。そして「誰かが郵便受けに変なものを詰めていったから、新聞が入らなかったみたい。知り合い?」と私にもごもごと言うのである。
そして先日、2度目(3度目?)に、今回は玄関からちゃんと入って来ようとしたカウチさんは「警察だぁ!開けろ!」と低い声で唸りながら我が家に押し入った。その前夜、仕事のため徹夜していたカウチさんは我が家の台所がまるで引っ越し前のようだとケチをつけたり、天井に達する本棚に感嘆して大きな声を出したり、MRIが出すノイズの「ズンドコズンドコ」を真似たりしながら1時間あまりノンストップで喋り続け、しまいに終電が無くなると言い放って突然帰っていった。その一部始終は私のインスタグラムに動画として記録されている。
そもそも彼女とは、1年に1度だって会っているわけではないし、彼女と遊んだことはないような気がする。初めて会ったのは私が30年ほど関わっている「岡村昭彦の会」の年一回の会合で、カウチさんはで、大勢の前で自己紹介を求められて「編集者の賀内麻由子です。私は貧民窟で死ぬと思います」と言い放って、居合わせた人々の度肝を抜いたのだった。その姿はキラキラしていて、実に私のハートを射抜いた。だからパーティーで細野容子さんにあらためてカウチさんを紹介されたとき、自分が作っている本のことで相談したいので、あらためてお会いできませんかと私から話を持ちかけたのだった。この当時、カウチさんはメアリー・エイケンヘッドという、18世紀アイルランドのカトリックのシスターで、ホスピスのルーツとなる仕事をした人物の本を作っていた細野さんの担当編集者で、いちおうは会社員であった(いまも会社員ではあるらしい)。
初めての待ち合わせ場所に指定されたのは、JR御茶の水駅前の喫茶店「穂高」。紫煙ただよう出版関係者の巣窟として有名なところ(いまはたぶん紫煙は漂っていない。彼女は煙草呑みではないのに、そういう場所に入り浸る癖がある)。私がおよそ一人で入ったことはない店なので、「あの穂高か……」という、えも言われぬ気持ちで向かったら、その日は定休日。編集者というものはおよそ、こういった待ち合わせのアレンジメントに長けている人々だと私は思っていたから少し慌てた。幸い、当時すでにわれわれには携帯電話というものがあったので(なかったらどうなることか)、携帯でそのことを伝えると、少し遅れて現れたカウチさんは、慌てもせず「じゃあこっちで」と、人がやっと通れるくらいの怪しい路地へとスタスタ入っていき、喫茶店「ミロ」へと私を導いた。確かに存在は知ってはいたが入ろうと思ったことのない、昭和の香り漂う小さな喫茶店である。案内されたテーブルに座ると、水の入ったグラスに、15センチくらいの、ちょろりと根っこの出た長ネギが突き立っている。どう見ても長ネギである。長ネギの水耕栽培というのは聞いたことがないが、といぶかしく思っていると、カウチさんもちらりと目をやり「長ネギですね」と言ったが、それほど驚いた様子もなく「まあまあ、そういう店ですよ」と言った。そのあとの話は、ものすごく盛り上がったというわけではなかった気がする。カウチさんは、何かのけじめをつけるだか、自分なりの責任を取るだかの理由をぶつぶつと述べながら、これから会社をやめるのだと話していた。そのあとカウチさんは文字通り放浪の日々を過ごすようになるので、本の話は結局、何度か相談に乗ってもらったものの、仕事という形にはならなかった。
カウチさんは貧民窟で死ぬと言ったけれど、私は暴動のどさくさにまぎれて刺されて死ぬと思います、という話をしたことがある。するとカウチさんは、「どちらにしてもわれわれ、畳の上では死にませんよ」とあっさり言うのである。
そして私が知らないうちに、いつのまにか郵便を送ることができるようになったカウチさんは、昨年の末に、ダンボールでいろいろ送ってきた。入っていたのは、カウチさんが編集を担当した八巻美恵さんの新刊『水牛のように』(horo books、2022年)と、何種類もの珍妙なコーヒー、そして不思議で美しい色の毛糸玉が3つ。「ダンボールを閉じる瞬間、なぜか毛糸玉を入れたくなって。戸田さんは編み物はしないはずだと、何度も手を止めたんですが」と、カウチさんはあとで弁明する。世の中には、思わず変な行動をしてしまう人、というのが確かに存在するので、私はそれ以上の説明をカウチさんに求めなかった。
先日、詩人の白井明大さんがふいに「ビールを飲みませんか」とメッセージを送ってきた。面識はなかったのだが、私が、白井さんの「日本国憲法の詩訳」が掲載されたフリーペーパーを朗読したいなどとぶつぶつ言っていたのを小耳に挟んで、忘日舎という西荻窪の本屋さんを経由して、その小冊子を送ってくれたことがある(これは今年3月にKADOKAWAから『日本の憲法 最初の話』として出版されている)。白井さん、忘日舍、そして私をうまくつないだのはやはりカウチさんだった。そういうわけだから、ビールは白井さんと、カウチさんと、3人で飲むことになった。桜の季節に都電荒川線沿線をふらふらして、巣鴨に辿り着いて、たこ焼きをアテにビールを飲んだ。カウチさんは意外なことに下戸である。そのわりにはいつも少し酒が入っているかのようなテンションのカウチさんと、内気ぶって寡黙だがニヤニヤしている白井さんと、出まかせに思いついたことをしゃべり続ける私の、3人の話はあてもなく漂って、どうやらこの3人は同じ星の住人らしいと私は結論することになる。散歩中、カウチさんの姿は何度も見失われ、私と白井さんがあわてて追いかけたのは当然の顛末であった。
どこかへすっとんで行ってしまう癖はどこか私にもあるようで、同じ場所にいると息苦しいようなところがある。まだ娘が幼稚園に通っていた頃、イスラエルに来ませんかと言われて、「そうねぇ、一度はキブツを見てみたいし」というような理由で行ったことがある。10日間も留守にするとは言えず、2、3日で帰ってくるような雰囲気をかもして出立した。母が当面、帰ってこないと知った娘は、気丈に振る舞っていたそうだが、電車のなかで航空会社の宣伝写真をみてふいに「ママは飛行機に乗って行ってしまったよ、もう帰ってこないかもしれないよ」と涙をぽろぽろこぼしていたという。それ以来、私は娘にまったく信用されなくなり、出かけるときは帰宅時間を紙に書かされ提出させられるという日々が続くことになる。