「図書館詩集」7(表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は)

管啓次郎

表紙の縁がうっすらと緑色に見える本は
読んではいけません
あざやかな赤の線が走っているものは
必ずお読みなさい
あまり信じられない占いのように
そう忠告してくれるおばあさんがいた
ぼくは信じます
だがそんな色の遊戯になかなか出会わなくて
いくつもの図書館を遍歴するばかりだった
そのうち五稜郭にやってきた
空から見ている、星形の砦を
何を守ろうとして誰がたてこもるのか
使うものがいなくなれば
次の者が、また次の者が?
砦が砦にふりつもる
たてこもるのもいいだろう
誰かが攻めてくるだろう
誰でも攻撃したいやつらはたくさんいる
じっと耐える者のほうがずっと偉い
それなら指先に、ろうそくのように
火をともす、艱難辛苦の果てに
世界秩序を変える夢を見ることにしようか
冷たい春の風が吹いている
塔の高さはすべてをジオラマ化し
雄大(雄大?雌大!)な北の地形の中にこの
正確な要塞が埋め込まれているのがわかる
砦にいま住むのは人間ではなく
赤松の歩哨たち
かつて佐渡から移植されて
歴史を見てきたらしい
きみたちはロシア語を話しますか?
この問いはどうにも避けられないだろうな
何も知らないのでただ
こんな言葉をくりかえすんだ
オーチェニ・クラシーヴァ!(すばらしいですね)
そうです
くじらはキート
いるかはジェリフィーン
あざらしはチュリェーニ
海はモーレ
岬はムイース
こんな知識で何がいえるわけでもないが
詩は書ける
「すばらしいですね、くじら!
すばらしいですね、あざらし!
すばらしいですね、海!」
ここに詩を見出すことができる人なら
あとはただそれを掘ってゆくだけだ
あるいは
「ヴガラーフ・ムノーガ・メドヴェーヂェイ?」
(山には熊がたくさんいるの)
この文と現実(実在)のあいだを
埋めるのが詩だ
つまりそれは生に非常によく似ている
語と語をどうつなげても
それが体の中を通らないかぎり
生気を帯びない
詩にはならない
逆に
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
くじら、あざらし、海!
といろいろな強度と音量とかすれと曲げをもって
千回発声をつづけることができるなら
それはきみの現実をその場で変えて
その変形力において詩に非常に近づく
ぼくはそう思っているよ
くじらがそこにいないなら、くじら
あざらしがそこにいないなら、あざらし
海がそこにないなら、海
心がそこにないなら、心
命がそこにないなら、命
そうつぶやきながらどんどん歩いていった
歩き、かつ、登ってゆくのだ
正教会は閉まっていた
カトリック教会にお参りした
聖公会は建築をちらり
信仰心をもたずにお邪魔してすみません
あ、ちなみにうちは「お東さん」です
一揆に親和性がある宗門です
でも元来は徹底的なパシフィストなんですよ
そのまま外人墓地にゆくと
猫が何匹もいて気持ちが安らぐ
猫は猫社会をもち
人間に人間社会の外を知らせることにおいて
人間につねによい作用をしていると思う
中国人墓地には漢字あり
外人墓地にはアルファベットで記された名前
若者もいるようだな、船乗りか
異邦で葬られるのは、それも運命かな
ぼくはある時期「客死」という言葉を恐れていた
お客さん、死にましたか?
Guest death がいつかは自分の運命かも
そう思ってふるえていたが
そもそも
死期も死地も自分で決められる
と思うほうが傲慢なのか
寒くなってきたので脂身を食べて
体を温めることにした
レイモンさん、焼きソーセージを一本くださいな
辛子をつけて齧ると
脂と塩でおなかがぽかぽかしてきた
肉食をめぐる問いを克服していないが
いまはまだヴィーガンになれそうにない
ときどき肉を食うから
許してください
肉よ、私を食ってくれ
食うものは食われて仕方がない
蛋白質もだが脂肪と糖分は
人間には悪魔的な魅力がある
脂身はまた最終的なスーツでもあるようだ
ホメロスを読んでいると勇士を荼毘に付すために
動物の脂身で屍をすっかり包み
おまけに戦友たちは髪を切って
棺をみたし弔いのしるしとする
という描写が出てきて
うー、へー、と思った
土地ごと時代ごと
さまざまな習慣があるものだ
できればあらゆる慣習から中立でありたいが
それは生き方としても死に方としても
人に疎まれるだけかもしれない
ならば獣の世界へゆくか
「函館山に熊はいますか?」
ここで熊といえばいうまでもなく
羆だ、Sun Bear だ
直に見れば目がつぶれても仕方なし
太陽信仰にとっても中心的な動物だ
「います、いるようです、被害は出ていないけれど」
別の人は「ここにはいない」というが
証明できるのだろうか、そんな不在証明を
この山はいわば島
長い砂洲が陸へと橋を架けている
都市区域を隔てて
むこうの山々と地続きとはいっても
たしかに熊交通にとってはかなり不便
ニンゲンが眠る深夜に熊は
ひとり都会の街路をわたっていくのか
それとも何か超自然的な力で
空を(たとえば高度5メートルで)飛んでゆくのか
なんとも美しい羆のイカロスよ
ろうが溶けないように月夜を飛んでいけ
ぼくは風に飛ばされないように歩いている
そして長谷川家の跡を探すのだ
長谷川家の四兄弟のことなら
いつも漠然と頭にあった
もっともぼくの興味を惹いたのは
長男の海太郎と末っ子の四郎かな
めりけんじゃっぷのさのばがん
丹下サゼンは林フボー
牧逸馬の作品は読んだことがない
やはり好きなのは谷ジョージだな
でも彼のように地平線を踊らせることは
そんな生き方をする根性がなかったので
ごめんなさい
それでもカール・ロスマンのオクラホマ野外劇場
のように、ぼくには
アラバマのチャイナグローヴがあった
末弟の四郎のシベリア体験のことも
よく知らない
というか目をそらしていた

 長谷川四郎(1909-1987)
 香月泰男(1911-1974)
 石原吉郎(1915-1977)
 内村剛介(1920-2009)

シベリアでの抑留体験をもつ
かれらひとりひとりの文章や絵の影に
名前も伝わらない何十人も何百人もの体験があった
無理だ、追うのは、凍土に
塗りこめられた死を想像することもできない
けれどもその歴史を抜きにしては
戦後の日露関係というか日ソ関係も
まったくわからないし本当は
詩も絵も読めないのだ
いったい歴史を歴史に閉じこめておいていいのかな
死者を死んだものとして無口だと思っていいのかな
きみが生きていて歩いていて
あるとき何かにふと近づくと
突然鳴り出すものがあるじゃないか

  ほろびるもの、つねないもの。
  ひとと しぜんを むすぶ、かはらない
  なにかを もとめて、
  おんさの やうに ちかづく、ふれて
  なりあふために。
  (吉田一穂「ひびきあふもの」より)*

近づくと鳴り出す
ぽーんと鳴り出す、うなり出す
そこに美しい天然が生まれるが
その理由は何よりも
そこにも命が懸かっていたからだ
その命は別の命の助けを借りて
初めてよみがえるからだ
気を取り直して四郎の小さな本を手にとる
甦りのために
そうそう、この本は若いころ好きだった
四郎がガンガン寺の思い出を書いている
それはハリストス正教会のこと
ガンガンと鐘を鳴らすのがやかましかった
幼児の彼はそのそばの家に住んで
父親は投獄されていた
彼の長兄(海太郎)は後に単身アメリカにわたり
自分自身をビリーと呼び
次兄(潾二郎)をジミーと呼び
三兄(サンズイのついた睿)をスタンリと呼び
四郎をアーサーと呼んでいたそうな
冗談好きな想像力
最高だね
だがかれらはロシア語にもよく親しんでいた
「ロシヤ語についてだが私が
英語のアルファベットよりもさきに
ロシヤ語のアルファベットをおぼえたのは
私の生れ育ったころの函館はカムチャツカ
漁業の基地でロシヤ船がよく入港
したので、ロシヤ語のカンバンがほうぼうに
出ていたからだ」
(長谷川四郎『文学的回想』晶文社より)
「アーサーよ、お前は床屋になれ」と
ビリー兄さんは手紙に書いてきた
四郎のその後の人生については
ここではふれない
ただ野間宏がこう書いていると
四郎自身が紹介していた
「私はひとり酒を飲みながらよく
私の横に長谷川四郎がいるのを思い浮かべるが
この時彼の大きい身体は小さくなり、彼は
みみずく
野兎
かわうそ
のような姿をして、私をからかうのだ」(同書)
これはいい話、すばらしい話だ
人間だって、他の人間の想像力の中で
こうした動物を演じることができるなら
そのときわれわれの生は根本的に贖われ
(贖うとは「罪ほろぼし」をすること)
われわれはいつか北の強い風に吹かれて
はればれとした顔で笑っているだろう
みみずく、野兎、かわうそとともに
からかうように
からかわれるように
笑っている
ありがとう
動物たち

函館市中央図書館、二〇二三年三月一二日、晴れ

*吉田美和子『吉田一穂の世界』(小沢書店、一九九八年)より