話の話 第11話:霞を食う

戸田昌子

その日、わたしたちは確かにリゾットを頼んだはずだった。それなのに運ばれてきたのはシーフードグラタンだった。あれっ、と思ったわたしとホリイさんは顔を見合わせ、そしてホリイさんはいつものリズミカルな抑揚で「あ、ぼくら、リゾットを頼んだはずなんですけど」と快活に言った。すると店員は「いえ、グラタンです」ときっぱり断言して、ごとり、ごとり、と皿をわれわれの前に置いた。その確信にみちた不機嫌な仕草に「もしかしたら自分たちが注文を言い間違えたのかもしれない」と思いこんだわたしは、「わたしグラタンも好きだから、これでいいんじゃない? おいしそうだし」と言った。虚をつかれた顔でホリイさんは、「あ、そうですね、うん、」と、確かに「うん」のあとに「、」をつけて、なにかをのみこんだようだった。店員さんが去ったあと、わたしはいつものように笑顔を作ってからグラタンにかじりついたのだったが、ホリイさんはやはり、うまくのみこめなかったようである。「リゾットを頼んだはずなんだけどなあ、」と、また語尾に「、」をつけながらホリイさんはグラタンを食べ、そして、それを食べ終わったあと、両手をパッと合わせて「やっぱりリゾット、食べませんか? 半分こしましょうよ」とわたしに提案したのだった。

そういうわけでその夜は、シーフードグラタン、半分ずつのリゾット、そしてプリンを一つずつ、食べた。店を出ながらわたしは「意外に大食なんですね、ホリイさんは霞を食ってるんじゃないかと思ってました」と言った。するとホリイさんはこともなげに「ああ、霞も食べるんですけどね、あれは喉に詰まるんですよ」と言った。なるほど、ホリイさんは霞を食ったことがあるのか。しまった、わたしは霞を食おうと考えたことすらなかった、と軽く敗北感を感じるわたし。暑かったのか寒かったのかも思い出せないその夜は、ホリイさんと二度目に遊んだ蛍狩の初夏の夜からは、たった4ヶ月も経っていなかったのに、はるか古代のことのようで、珍妙な明かりをともして夜闇に沈んでいる。

霞を食う、と言えば、わたしはヒッピーを連想する。20代前半のころ、アメリカで一緒に住んでいたルームメイトのクリスティーナはヒッピーだった。ヒッピーといえば1960〜70年代のカウンターカルチャー、いわゆるラブ&ピースを理想とする人たちで、コミューンを作って生活し、ドラッグを吸っては瞑想などをしていた人たちだ。彼女は両親ともにヒッピーで、ヒッピーしか住んでいないカナダのある島の出身だった。「ヒッピーはやっぱりみんな、マリファナを吸うの?」とわたしが尋ねると、クリスティーナは「あたりまえやん。うちの島はマリファナを共同農場で栽培してたよ」とこともなげに答える。「わたしらの島だと、マリファナは大事な共有財産だから、ひとりじめしちゃダメなんだよ。なのにあるとき旅行客がマリファナを盗んで大騒ぎになって」と話し始めた。マリファナは共同で栽培・収穫されて共有の倉庫に保管されているが、鍵もかけられておらず、外部の人間でも吸えるのだと言う。ある時、旅行者の二人組が、盗む必要もないそのマリファナをその倉庫から盗み出した。そこまではまあ、ありそうな話だったのだが、問題は、犯人のうちの一人が銃を所持していたこと。その銃を見たこの平和な島の人々は、「なんてことだ!彼らは銃を持っている!違法だ!」と大騒ぎになり、急遽、捜索隊を結成して二人を追いかけることになった。逃げ出した犯人たちは、島に一つだけある港までたどりつき、そこにいた船の船長に「すぐに船を出せ!」と迫った。まるで映画の一場面のようである。しかし船長もまた、ヒッピーなのである。ニヤニヤして「それはどうかな……」と誤魔化してばかりで、船を出さない。そこへ捜索隊が追いついて、ふたりをあっさり捕まえてしまった。警察に突き出すとき島の人々は「こいつらは違法な銃を持ってるから悪いやつらだ」と説明したが、「共有倉庫からマリファナを盗んだ」という真の罪状は決して述べなかった。もし真実を述べれば、島の人々がほぼ全員、捕まってしまうからである。そして犯人たちものほうも、違法な銃の所持に加えてマリファナ盗難などという、自分たちの罪が重くなるようなことをわざわざ言うわけがない。そして警察のほうも、ふだんからマリファナ栽培を黙認している事実を公にはしたくない。そんなわけで、大人たちが雁首そろえて肝心なことは黙ったまま、犯人たちは警察にしょっぴかれて行ったのであった。

しかし、クリスティーナはマリファナに関してはなかなか批判的である。「この島の高校生は全員、マリファナを1回くらいは試してみるけれども、わたしなんかは親が若いころにマリファナを吸いすぎて、いまでも幻覚があるから、あれみたらもう吸わないね」と言っている。マリファナの幻覚は一生もので、本人たちは霞を食って生きていけるのだとしても、はたから見たら「それはどうかな……」といったところなのだろう。

田野が歩きながら言う。「たとえば1950年くらいのさ、東欧のどこかで、レジスタンスにおれとあんたがいてさ、でもあんたはほんとは無政府主義者だから、ちがうんだ。ふたりでかつかつ石畳を歩きながら、コートの衿立てて、たばこを分け合って話すのさ。そうだった気がする」。田野の話はいつも唐突ではあるが、べつに支離滅裂というわけではない。「ああ、それは、ハンガリーとかポーランドだね」とわたしも応じる。「うん、そう。チェコじゃないの。でもチェコもいくよ。連帯してるから。でもちがうんだ。無政府主義だから。詩と音楽を愛してるんだよ」。そこでわたしは唐突に、スロバキアへ行ってしまった友の顔を思い浮かべる。哲学を学んでいた彼女は、大学を出た後、突然スロバキアに行きたいと考え、スロバキア大使館を訪問して、奨学金の試験を受けてスロバキアへ向かった。「わたしはなぜカントを、スロバキア語で読まなければならないのか」とぼやいていた彼女は、5年ほどたって恋人ができ、妊娠したので結婚することにし、新婚旅行と称してヨーロッパの山々をふたりで巡り、その登山スタイルのまま日本へやってきて、長野の家族に結婚の報告をして、ツーショット写真を送ってきた。その写真には、そこからアルプスの山々の緑が匂い立つ気がするような、さわやかなふたりが写っていた。

「日本では、ひとつの米粒には7人の神様が宿っている、と言うんだよ」と妹が義理の父母に説明している。ふたりはフランス人で、初めての日本訪問である。箸を上手に使えないパパさんのお茶碗の中は、食べ残して茶碗にこびりついてしまった米粒がいっぱいである。それをひょいと覗き込んだママさんは、「あら、それならパパさんのお茶碗はパンテオンね」と言う。神様と言ってもこちらは七福神、あちらは古代ローマ神話に出てくるような神々の庭……イメージが、だいぶ、折り合わない。

エルニーニョって、結局なんだったのだろうか。デニーズで遅めのお昼をひとりで食べていると、隣の席で上司らしきサラリーマンが二人の部下らしき若者たち(男女)の前でワインを飲みながら話している。「フランスでは、昼からワインを飲むんだよ。あ、店員さん、おかわり」と上司が言う。ふたりはうんうんとうなずく。「今年はさ、エルニーニョが日本に来るから、大変なんだよ」と、上司はろれつが回らない。ふたりはまた、うんうんとうなずいている。たしかにフランス人は昼からワインを飲むかもしれないが、デニーズではきっと飲まない。それに、エルニーニョは赤道あたりの海面水温が上昇する自然現象なので、おそらく来日はしない。

そういえば、ひさしぶりにホリイさんに会ったのは、わたしがゼミの準備をしていたときに、下鴨ロンドの道路に面した側の「窓を開けて」、部屋に入ってきたからである。通りに面してテラスのようになっている側面の窓ガラスを、手慣れた様子でガラガラと左から右へスライドさせて、ホリイさんは文字通り、スタスタと入ってきた。下鴨ロンドはシェアメイトが常時15名ほどいるシェアハウスみたいなもので、家賃を少しずつ共同で負担しながらイベントや宿泊や勉強会など、みなが好きなように使っている。その日は写真史のゼミが予定されていて、ゼミのメンバーが夜の打ち上げの準備のために台所に集まっていた。あまりに手慣れた様子で入ってきたホリイさんを、まだ会ったことのないシェアメイトの一人かなと思って顔をあげたらホリイさんだった。「ああ、戸田さん、」とホリイさんは言ったあとで、「今日ここへ来たら戸田さんに会えるとおもったので、」と続けた。しかしその時ホリイさんはスニーカーを履いていたのだ。「あ、靴!」とわたしが言うと、「!!!」と驚いたホリイさんは笑いながら靴を脱いで、玄関へ置きに行った。その「スタスタ」という足音がおかしくて、そのあとわたしはだいぶそれを突っ込んだ。だから、Art Collaboration Kyotoの会場でふたたびホリイさんと待ち合わせたとき、「いま近くです。これから行きます。スタスタと歩いて」と彼はLINEに書いたのだ。そして、再び、ホリイさんはスタスタとやってきた。

酔いどれ詩人の暮尾淳さんは、「すたすたすた だったよなあSよ たんたんたん だったよなあAよ Hはぺったぺったで」と書いている(「雨言葉」)。「Jはどんどんどんだったろうか」と続ける暮尾さんは、吹き曝しの階段の下の、埃臭い三角の隙き間に身をすくめながら、去って行った彼らの足音を聞いている。暮尾さんは、詩人だから確かに霞を食う、といったふうでもあるが、たいていは酔っている。暮尾さんは現代詩文庫の『暮尾淳詩集』のなかに、他の詩人についての自分の書き物や、自身の兄が書いた岡村昭彦についての思い出の文章など、自分の詩以外のものをいくつも収録している。そのなかに石垣りんの「わたしは思想により家族をつくらなかったの」という言葉も、記録している。記憶しておかなければいけないことを記録するという意味で、わたしは彼をほんとうの詩人だ、と思ったりする。暮尾さんは自分の話をしているようでも、実はいつも聞く人だった。いま思い出そうとしてもはっきりと思い出せないが、暮尾さんの足音は、ぺたぺたぺた、という音だった気がする。

犬好きの人が、マンションで犬を飼えないので、架空の犬が後ろからついてくるイメージトレーニングをSNSに投稿して遊んでいた。夜中に自分が台所に立つと、架空の犬が「チャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッ」と、ずーっとついてくるのだ、という話が面白かった、とわたしが言うと、「イヌの爪の音だね」と鳩尾が返す。鳩尾はどちらかと言うと「シャッシャッ」と歩く。タラちゃんは、自分が歩くたびに「トコトコトコ」という効果音が出てしまうことに、きっとイライラしているだろう。