しもた屋之噺(264)

杉山洋一

目の前には雲一つなく澄み渡った青空が広がっていて、毎日ラジオニュースで流れてくる陰惨な光景と、どうしても意識が乖離しがちなのですが、日記にも書いたanno bisesto, anno funesto 閏年は憂い年、つまり忌み年だという言葉は、イタリアではしばしば耳にします。どことなしに世界全体が厭忌すべき方角に引寄せられていて、だからこそ各々生きる意味を考えさせられる機会を与えられているようでもあり、つまるところ、社会そのものについて我々は一度立止まって見つめ直すべき時に来ているのかもしれません。目の前の小学校の校庭から沸き上がる子供たちの歓声こそが、なにものにも代えがたい喜びに感じられます。

—-

1月某日 ミラノ自宅
元旦より大地震。家人や息子が世話になった入善や、金沢の知人友人の顔が浮かび、不安に駆られる。どうしているのだろうか。一人でミラノで過ごしつつ、このまま日本の地震のニュースを見続けると、仕事に手がつかなくなると思い、リスに胡桃をやって机にむかう。
ストラヴィンスキ「火の鳥」を読み、改めてスクリャービンの和音と酷似していることにおどろく。聴かせ方だけで、印象はこうも変わるのである。なるほど「火の鳥」を書いた時点までは、10歳違いの彼ら二人は確かに近しい場所に居たのだろう。その後、それぞれ全く違う道を選んだ。

1月某日 ミラノ自宅
般若さんからと入善の友人から生存確認メールが届く。羽田空港で航空機衝突事故。闇のなか、飛行機がさかんに燃え盛る衝撃的な映像は、現実とは思えない。
野坂操壽さんの手による「菜蕗」譜と筑紫筝の資料が、突然机の横から現れた。随分探していたのに、「夢の鳥」作曲中、今回見つかった場所をいくら探しても出て来なかったのが、作曲が終わった途端突然現れたので、操壽さんがこの資料に拘泥しないよう慮って下さっていたに違いない。
湯河原と大磯の親戚に電話。おじさんは視界の歪みと肝硬変、おばさんは良性脳腫瘍で瞼が自然と下がってしまってと明るく笑い飛ばしていて、こちらこそすっかり励まされた思いだ。
マリゼルラからのメールに anno bisesto, anno funesto「閏年は憂い年」とある。

1月某日 ミラノ自宅
金沢の友人からのメールに、志賀原発が不安なら、娘さん二人はうちで預かると知り合いから申し出があり、子供たちに相談したら、死ぬときは一緒がいいと即答されたとあり、胸がつまる。「家族とはこういうことなのだと思い知らされました」と書かれていた。
ハーバード大学長クローディン・ゲイが反ユダヤ主義に対する姿勢を批判され辞任に追い込まれる。彼女は黒人初のハーバード大学長だった。
年末に書き終えたファゴット曲を書き続けている夢。切れ切れに、同じ旋律をやるというアイデアだったが、今となってはぼんやりとイメージだけが残っているのみ。なんだ、こうやればよかったのか、と夢の中で喜んでいた記憶があるのだが、何か無意識にやり残したものがあったのか。

1月某日 ミラノ自宅
町田の母が、昨年から趣味だったピアノを再開したそうだ。親指の腱をいためているので、ピアノは悪かろうと思い勧めなかったが、いざ弾いてみると無理さえしなければ充分楽しめるらしい。くぐり指はやめた方がいいだろうが、別に指使いなど、趣味でのんびり弾く分には、どうにでも無理のないよう替えればよい。バッハのインヴェンションを弾いているという。

1月某日ミラノ自宅
母がそれとなく勧めたところ、父も嬉々として何時間もピアノを練習していた、と聞き驚愕する。80歳代終盤の父が何十年ぶりに弾いた最初の曲は、「トロイメライ(夢)」であった。半世紀ほどの間、父がピアノを弾いている姿を見たこともなく、ピアノを弾けることすら知らなかった。
その昔、管野先生に油絵を教える代わりに、少しピアノの手ほどきを受けていたと言う。自分が生まれる前のことで知る由もないが、ずっと弾きたいと思っていたらしい。一時期、チェロを弾いてみたいと言っているのを聞いたことがあるが、余り気にも留めていなかった。家族だとそんなものかも知れないが、今更ながら申し訳なくおもう。

1月某日ミラノ自宅
朝9時から夜8時半までレッスンと授業。母曰く、父は「エリーゼのために」を3時間近く籠って練習していたそうだ。
ミーノがブランシュヴァイクのオーケストラの首席指揮者になって最初の演奏会のヴィデオを送ってきた。べリオ「レンダリング」とショスタコーヴィチ15番。彼がまだボローニャに住んでいる頃から面倒をみていたのだから、思えば長い付き合いになるが、自分に近しいものを実感したのは今回が初めてで驚いてしまった。自分と似た演奏をさせたいと思って教えてきたのでは全くないが、彼の裡で何かがすっと吹っ切れたような、拘泥ない自然で美しい音楽が流れていて聴き惚れた。能登半島地震の犠牲者が200人を、ガザの犠牲者に至っては23000人を超えたという。Covidの犠牲者への鎮魂の祈りを込め金沢で「揺籃歌」を初演してから、もうすぐ2年になる。

1月某日 名古屋ホテル
羽田の着陸時、心の中で滑走路に向かって手を併せた。息子は同じ日に東京からミラノに戻ったので、知合いのタクシー運転手に家の鍵を預けて、息子に渡してもらう。川口成彦さんが、「山への別れ」を東京で再演してくれて、演奏会を聴いた家人曰く、初演ともまたまるで違った演奏で見事だったそうだ。その言葉を川口さんに伝えると、今回は表現の欲求が前回よりも増して、作品とより一体となれたんです、とお返事をいただく。作曲したものとして冥利に尽きるし、機会を与えて下さった平井洋さんに改めて感謝している。
坂田君の音楽の魅力は、合奏部分で金管とシンバルを絶妙に重ねて、銀の粉を振りかけたような美しいオーケストラの響きを造り出すところ。演奏していて生理的な爽快感と充足感を覚える。その感覚はきっと聴き手にも伝わるはずだ。
演奏会後、安江さんたちと会場近くでおでんに舌鼓を打った。今回の名古屋滞在中、初日は生春巻きにあたり、その2日後今度はカキフライにあたりと、食事では散々な思いをしたので、艶やかなおでんの美味しさが臓腑に沁みる。メニューに糸コンニャクがなかったので、糸コンニャクは関東独自の具かも知れない、という話になる。出汁は品のある関西風だったから、名古屋のおでんは関西風に違いないとの解釈。
山本君、成本さん、内本さんにも久しぶりに再会。名古屋は思いの外イタリアとの繋がりが深い。演奏会冒頭、ステージの照明も抑えて、震災に向けてレスピーギ「シチリアーノ」を追悼演奏したのだが、金沢にお宅のある成本さんは、能登の友人に思いを馳せて思わず涙がこぼれたと言う。震災後直ぐに成本さんのご主人、田中君に連絡したが、彼から、ちょうど金沢を離れていて二人とも震災には遭わなかったと聞いていた。

1月某日 三軒茶屋自宅
演奏会の本番というのは本当に不思議なもので、必ず何か特別なものが生まれ、耀く。演奏者のはりつめた集中力や鋭い気迫だけではなく、固唾をのんでステージをみつめる聴衆や、ステージを作る関係者一同の心地良い緊張も相俟って、得も言われぬ有機性のある空間が作り出される生きる幸せ、音楽を分かち合う僥倖を実感する瞬間でもある。コンマスの友重さんとはもう長いお付き合いだが、いつも心から感謝している。今回も沢山教えて頂いたし、何より安心して演奏会に臨めるのが嬉しい。彼と一緒にずいぶん沢山の忘れられない公演をやらせていただいた。
眞野さんと一緒に品川に戻る車中、「ローエングリン」舞台装置のテストの写真など拝見。幽玄でどこか儚く、思わず見惚れる美しさであった。家に着いて、ごくシンプルなトマトのパスタを作る。料理は何しろリラックスしてよい。

1月某日 三軒茶屋自宅
三善先生「Over the Rainbow」4手ピアノ編作。彼の生徒で最もピアノが弾けないものとして、一音ずつ弾いては、指のうごきと響きを確かめつつ書き留める。結果として先生のヴォイシングと全く異なるものが浮き上がるが、これが正しく先生の意図だと信じることにした。
昼過ぎ、惠璃さんからお電話をいただき、午後並木橋まで自転車を飛ばす。惠璃さんとは演奏者と楽譜の距離のはなし。
或る時は目の前1メートルくらいに楽譜があるつもりで弾き、また或る時は、自分を楽譜より1メートル先に置いて弾いてみる。楽譜を真下から見上げたり、真下に見下ろしながら爪弾いてもよいし、演奏中に或る位置から別の位置への移動も可能だろう。その意識こそが、演奏者の空間を図らずも意識化、可視化、有機化させる。演奏者の空間が顕現化されると同時に、演奏者自身の音楽が、そこに明確に姿をあらわす。自分が書いた楽譜は触媒でしかないから、楽譜の裡に音楽など存在しないが、その触媒を通し惠璃さんの音楽を紡ぎ出してほしい。

1月某日 三軒茶屋自宅
野坂惠璃さんのリサイタルで「夢の鳥」を聴く。思いがけなく自由な音楽に、思わず心がふるえる。最初の一音がつづく一音の呼び水となり、どこまでも続く。目に見えぬ糸が音を紡いでゆき、まるで織物が編み上げられてゆくようにもみえるし、朝露の雫を溜めるうつくしい蜘蛛の巣のようにも、極彩色をした鳳の典雅なはばたきにも、感じられるのだった。
惠璃さん曰く、その日の朝操壽さんにお線香をあげると、立ち昇る煙が輪を作ったそうだ。あちらの世界は、思いがけなく我々のすぐ傍にあって、そこではきっと誰もが幸せな時間を過ごしているとおもう。

1月某日 三軒茶屋自宅
アウシュヴィッツ強制収容所解放記念日だが、今年はイタリア各地で親パレスチナを掲げるデモが繰り広げられた。治安保持の立場から政府はデモの延期を要請したが、パレスチナの若者がSNSで強行を呼びかけたところ、圧倒的な数の若者が賛同してミラノ、ローマ、ナポリ、カリアリで大規模なデモ行進が繰り広げられ、反イスラエルを叫んだ。ニュースではイスラエル国旗が燃やされる様や、デモが暴徒化する恐れから、ローマなど前日から商店など早々に店を閉める様子、ミラノの政府治安部隊とデモ隊との特に激しいつばぜり合いが繰返し報じられている。
今まで辛うじてそれなりに保たれていた世界のパワーバランスは、明らかに崩れ始めた。ミラノの親しい友人とも、今までのように気軽に政治について話すことができない。生粋の共産党員であるSは、はっきりと話さないがユダヤ人なのだろう。バイデンは頑張っているが、トランプが万が一当選したら万事休すだと言う。確かにその通りかも知れないが、無辜のガザ市民の犠牲者を思うと、暗澹たる思いにも駆られる。年始の能登半島地震の話など、今や話題にも昇らない。日本は耐震構造が進んでいるから、犠牲者も殆どいなくて良かった、程度の認識しか記憶に留められていないように見える。ロシアがウクライナを侵攻するのは悪で、イスラエルがパレスチナをゲットー化するのは善、と言っても誰も納得しないが、イスラエルは国連パレスチナ難民救済機関職員がハマスと内通と糾弾し、イタリアや日本を含め、各国が資金拠出停止を決めた。
日々世界の状況はエントロピーに近づいていて、このエントロピーが、我々から生きるエネルギーを奪ってゆく。最早誰が正しく、誰が間違っているのかもわからない。道義も正義も以前から既に形骸化していて、結局体を成していなかったと気づく。今こそ何のために、誰のために生きるのか、我々が改めて考えるべき時が来たのかも知れない。

1月某日 三軒茶屋自宅
早稲田でひらかれた感謝会の席で、よく響く低い太い声をふるわせ、佐々木さんが諳んじたイーリアスが見事だった。彼が暗誦を始めた途端、空気ががらりと変わるさまは、まるで名演奏家が客のリクエストに応えてさっと即興を披露するが如く。なるほど、彼は身体の芯から音楽家であった。
松本良一さんから草津でカニーノに叱られた話を聞いた。新しいベーゼンドルファーが草津の音楽堂に入ったばかりの頃、遠山慶子さんからピアノに触っていいわよと言われてショパンの舟歌を弾いていると、出し抜けにカニーノが現れて、そこは音が違うだろうとイタリア語で怒りだしてしまった。挙句の果てにお前はどこのクラスの学生かと質されて、自分は取材で訪れている新聞記者だと応えると、たとえ新聞記者でも正しく弾かなければいけない、と改めて厳しく諭されたそうである。

1月31日 三軒茶屋にて