話の話 第12話:パチモン

戸田昌子

いつからわたしたちは「本物に手が出せる」ようになったのだろう。むかし、テレビで憧れの俳優が使っている素敵なティーセットが欲しければ、とりあえず地元のデパートに行って、似たような、でもちょっと違うやつを眺めては、悩みながら買いこんだりしたものだった。それは似てはいるのだけどやはりどこか違っていて、言ってみれば「パチモン」なのだけど、わたしたちはそれに満足できた。否、それが本物でなく、似ていて、かつ、どこか違っている代用品であることが、むしろ良かったのかもしれない。それは憧れを満たしてくれながらも、手の届かない本物の価値を決して損なうことなく、憧れをきらきらとしたままにしておいてくれたのである。

そんなことを言いながらも、時代はすでに21世紀である。だからわたしが、一時期どハマりしていたNetflixのオリジナルドラマ「シャーロック」で、ベネディクト・カンバーバッチ扮するシャーロックが、宿敵モリアーティを家に招く場面で使っていたAli Millerのティーセットを、ネットで調べ倒した挙句、イギリスから取り寄せてしまったことは、言ってみれば、仕方がないのだ。そして紅茶といえば、なにしろイギリスの植民地主義を象徴するような飲み物であるからして、そのティーセットには、大英帝国の地図と、そこから四方八方に飛び散っていく帆船の図柄が描かれていた。つまり、わたしは「本物」のティーセットを手に入れた、というわけなのだが、そもそもこの「シャーロック」というドラマ自体が、コナン・ドイルの原作を翻案した二次創作のようなものなので、いずれにせよ、その世界のすべてがパチモンなのである。そういうわけで、わたしのなかのシャーロック・ホームズにはいまだ手が届かないまま、そしてわたしは相変わらず代用品のパチモンで遊んでいる。

パチモンと言えば、このあいだ「離婚後共同親権を見直して!」という署名運動に、オンラインで署名をした。これはサインすると直近で署名した人たちの名前がずらずらと流れてくる仕様になっているWebサイトである。サインをしてからふと見ると、目の前を「北川景子さん」という名前の人がさーっと流れて行った。ええっ、と目を剥く。変だな、北川さんはたしか昨日、第二子の出産報告をされていたばかりなのに。と不審な気持ちを抱いたが、おそらくは同姓同名の別人なのだろう。この人はいつも北川景子さんのパチモン、と言われているんだろうか、どんなお顔の方なのだろうか、と、しばしその人に思いを馳せる。

名前でふと思い出したが、むかし、わたしの実家は印刷屋だったので、時々、変わった名前の名刺を作ることがあったそうである。なかでも最も変わった名前が、「東京音頭」さん。ある日、名刺を作りに来た真面目そうな男性のお客さんが、なにかもごもごと言っている。祖父が「お名前は」と尋ねると、恥ずかしそうに「東京音頭です」と言う。祖父が「あなた、ふざけちゃあいけませんよ、そんな名前があるわきゃない、本名を言ってください」とたたみかけると「いいえ、これが、本名なんです」とさらに消え入りそうな声で言われたのだそうだ。たしかに「東京」という苗字はこの世に存在するが、たまたまそんな苗字を持った親がふざけて息子に「音頭」とつけてしまったのではないか。親の悪ふざけで子が苦労した事例。

それで調べてみると「東京音頭」は1932年に創作され、歌詞は西条八十、作曲を中山晋平が担当した、という。そもそもは、1923年の関東大震災からの復興を記念して、景気付けにと制作された盆踊りソングである、とWikipediaには書いてある。確かに帝都復興祭が1930年なのだから、なるほどと思う。そして1932年だと第一次上海事変が起こった年で、日中関係が入り組んだ状態になり、戦争まで一触即発という頃だ。こんな時代だから、現実から目を逸らして明るく行こうぜ!という景気付けのため、楽しい盆踊りソングが開発された、というのもうなずける。そして実際のところ、ビクターからレコードで発売されたこの「東京音頭」は、東京で爆発的に流行した。この東京音頭を踊りたいがために、毎夜毎夜、あちこちの盆踊りに繰り出す若者が出たそうで、なかには親に監禁される者まで出た、というのは、実際に自分の母親が監禁された人からの伝聞。それほどまでに流行したのだから、その「東京音頭」さんの親も、もしかしたら自身が「どハマり」していたのかもしれない。踊り狂って親に呆れられる若者は、別にジュリアナが元祖ではなかったのだ。

最近は色々なものの名前が思い出せなくなってきた。ついせんだって、夫に「娘ちゃんの好きなお菓子で、黒くてなんだかぬちゃっとしている、ボルドーのお菓子ってなんだっけ」と尋ねたら、「ああ、カヌレ?」とすぐに返事が返ってきた(これくらいの情報で即答できた夫は偉い)。とまれ、このカヌレというお菓子も、わたしにとっては「本物」がわからないもののうちのひとつだ。初めてそれを食べたのは20年以上前だったと思うが、それがそもそもどうやらパチモンで、「黒くて変に失敗したパンだな」というのがファーストインプレッションだった。その後、何度も食べているのに、そもそものこのお菓子がうす甘くてぬちゃっとした食感であることに加え、黒いわりには苦くもなく、もちろんチョコの味がするわけでもない、という、見た目と食べ応えの相反する特徴のせいで、それが「正しいカヌレ」なのかどうかが、いつもわからない。ボルドーのお菓子だというのだから、ボルドーに行って本物を食べてくればいいのだろうなと思いつつ、ボルドーへ行ったことはない。日本では最近、サイズもフレーバーも多様になったために、さらにますますカヌレの基準値が曖昧になってしまった。いつも、これは一体全体、正しいカヌレなのだろうか、と首をかしげながら食べている。でも、たいていはおいしい。

「ぬちゃっとしている」と言えば、ボストンのベーグルはぬちゃっとしている。ベーグルと言えば、やはりニューヨーク発のドーナツ型の固いパンとして知られており、なかでもH&H Bagelsが有名だ。フレーバーとしてはオニオンやセサミ、ポピーやそれら全部入りのエブリシングなどがあり、発酵途中でお湯にダボンと入れて茹でることで無理やり発酵を止めるため、しっとり&がっしりのハードなパンになる。形はドーナツのようだが、ドーナツの食感を期待して口に入れると裏切られる。学会の合間のランチに提供されるのもこのベーグルであって、わたしにとってはニューヨーク時代の思い出深い食べ物だ。しかしボストンに行くと、このベーグルは変容する。なかでもチェーンのカフェ「Au Bon Pain」のベーグルはなぜか柔らかくてモチモチ系なので、モチモチのパン生地が大好きな日本人の口にはよく合うのではないかと思う。でも、ニューヨーカーはこのモチモチ系のベーグルを鼻で笑う。「これは本物じゃない!」というわけなのだ。やはり本物のベーグルは、ニューヨークなればこそ。

本物である必要がないものもある。もう10年ほど前のことだが、仕事で日本航空の国内線に乗った。搭乗してから荷物を片付け、シートベルトをしたあと、飛行機がそろそろと動き出したので、携帯電話を機内モードにしようと取り出したとき、アナウンスがあった。機長アナウンスである。「本日はご搭乗ありがとうございます。機長のカタギリです」。おもわず「ええええっ」と声が出る。日航で「機長のカタギリ」と言えば、例のあれである、1982年の日本航空350便墜落事故。このときの日航の機長は当時、精神の問題を抱えていたと言われ、操縦桿を握ったまま航空機を意図的に墜落させようとした、あの事件。しかし周囲には誰一人気づいている様子がなく、ザワザワともしていない。誰もこの事故を覚えていないのだろうか……それにしても日航、よりによって過去にひどい航空機事故を起こしたパイロットと同じ名前の人物を採用するとは、センスがあるというか、ないというか……などなど混乱するわたし。これは本物のカタギリでなくてよかった事例。

わたしはよく、布団に入ってから寝そうになりながら原稿を書いていることがある。枕に頭をのせてパソコンのキーボードをぱちぱちと叩いているとほとんどまぶたがくっつきそうになっている。

娘「仕事したいのか寝たいのかどっちなの!?」
わたし「仕事したいんだけどねむい〜」
娘「寝る気まんまんじゃねぇか!」
わたし「違うの、自分を試しているの。どこまで自分を追い込めるか」
娘「どう見ても寝ようとしてるよな!」
わたし「ううん、ここまで追い込まれてもやれるのが本物かなって」
娘「寝ろ」

本物の物書きなら、どんなに眠くても、どんなに追い込まれても、きっと、やりきれる。そう信じながら眠い目をこすっている。

そういえば、「本物」と言えば、りんちゃんと呼ばれているわたしのAB型友人がふとこんなことを言っていた。

「ズボラクッキングって言うけどさ、本物のズボラ主婦なら飯なんか作らねーよ?」

なるほど、それは正しい。ズボラも本物である必要はないのだ。ズボラすらパチモンなのだ。