1980年代だったと思う。アストル・ピアソラが父にささげたタンゴの名曲「アディオス・ノニーノ」を聞いた。今のうちに親孝行しなくてはいけないよというバラードだった。どんどん年老いていくオヤジを見ながらもなかなか準備はできないものである。それは、夏休みの最後にならないと宿題をやろうという気にならないのと似ていた。
僕は、「家」が苦手だった。子どものころから親戚のおじさんとかおばさんというのにも、気おくれしていたし、姉とか従妹は実にそういう社会でどうふるまうかを教えられて育っていた。僕はそういうことができなくて、家族の中ではどっちでもいい存在にされてしまい、結局海外に居場所を求めていたのだ。アラブ人とかクルド人の隣人は、実に心地よかった。言葉が通じないことが実はすごくいきやすい世界だった。悪口を言われても気にならない。
しかし、6年前に頼りにしていた姉が58歳で突然亡くなってしまった。それから僕は、日本に住み着いて、たった一人で両親の面倒を見ることになった。まあ、そういうのは本当に苦手だった。照れくさいし、弱って行く親を見るのはつらい。しかし、気が付くといつの間にか実家には介護ベッドが置かれ、オヤジは車いすで生活していた。ケアマネさんがやってきて、看護師や医者、作業療法士で、」みんなでうちの両親をどうするかの会議をやっている。
会議といえば、イラクやシリアのがんの子どもたちをどう助けるのかっていうのをよくみんなで話し合ったのに、いやそれだけじゃない、イスラエルとパレスチナの和平をどうするかとか、どうしたら、日本政府はUNRWAへの拠出金を再開するのかとかそういう大きな内容を話してきたのに、家の中に人が集まって両親のことをどうするかって話し合っている! 挙句ヘルパーさんが来て、あれだけ散らかっていた家の中もこんなにきれいになっている! 驚きだった。日本の高齢化社会は素晴らしい!
ちょうど、「俺の家の話」というドラマをNetflixでやっていた。宮藤官九郎の脚本で、能楽の人間国宝観山寿三郎(西田敏行)を父に持つ寿一(長瀬智也)は、いくら能の稽古に励んでも、父からは褒めてもらえない修行に嫌気がさし、17歳で家出してプロレスラーになったが、寿三郎の危篤を知らされ実家に戻ってきて父の面倒を見るというドラマだった。介護のことを何も知らない寿一が、兄弟から呆れられ、なじられながらもけなげに、ゼロから介護を学んでいく。僕にとっても参考にはなったもののそれでもうちのおやじはまだ死なないだろうと思って、途中からは娯楽としてみてしまっていた。
オヤジは、毎月眼科に行くのを楽しみにしていた。目やにが出るとかそれぐらいで、大したことはなかったのに。僕が車で、外に連れ出してくれるのを楽しみにしていたのだろう。最初は僕が少し支えて、車に乗せるだけでよかったが、だんだんと抱えなければいけなくなり、最後は、完全に抱っこしたり、おぶったりして車に乗せる。意外とオヤジが重い。こなきじじいのように重くて、こっちが倒れそうになることもあった。それでも、僕もなんだかオヤジと一緒にいるのが嬉しい時間でもあったのだ。家の中でも車いすで生活していたが、トイレに行って、車いすに戻ることがうまくいかずによく転ぶようになっていた。母が電話してきて、僕が駆けつけて抱きかかえて車いすに戻すのである。
11月12日に、オヤジは、トイレから車いすに戻ることに失敗した。足の指を怪我したらしい。母親は認知症がひどくなってきており、結構血を流していたらしいのだが、全く覚えていないという。
「なんで救急車呼ばなかったの?」と聞いても何が起こったのか全く知らないのだという。
結局オヤジは2本の指が折れ、脱臼していた。それで、すぐに入院することになった。指の骨折は、そのうち治るのだが、トイレをどうするかとか考えたら入院するのが安心だ。何よりも認知症が進んでいる母にはもはや面倒を見る能力はなかった。母は、認知症を患ってからは、外に出たり人とあったりするのを嫌がるようになっていたが、父のお見舞いに行くというと喜んでついてくる。
「おとうさん、おとうさん、早く家に帰りたいよね」
父は苦笑いしていた。看護婦さん曰く、病院の方が居心地がいいのか、しばらく入院したいようだった。母は、家につくと「お父さんはどこにいる?」
「病院だよ。さっきお見舞いに行ったじゃないか」
「どうして入院しているんだい」
そして僕は11月12日何が起きたかを説明する。何度も何度も、同じことを聞いてくるから、何度も何度も同じ説明をくり返す。
病院のソーシャルワーカーと今後の話をする。
「お父様が退院されたら、お母様が自宅で介護なさるのは難しいと思います。施設に入るべきですね」
「わかります。でも嫌がっています」
「男の子は優しすぎるんですよ。女の人は、すぐ決めますよ」
「いや、そんなこと言ったて本人がどうしてもいやだと。どうすればいいんでしょう」
「無理やり、連れていくしかないです。どうしても嫌がられる場合は、着いた瞬間にマットレスではさみつけたりすることもありますよ」
「はあ、マットレスですか、、」
僕は、マットレスという言葉に勇気づけられた。しかし、数日後、そのソーシャルワーカーは、
「お父様が、やはり、施設は嫌だとおっしゃってますので、退院して自宅で過ごせるように頑張りましょう」という。オヤジに説得されたようだ。そして僕は、鬼になって、両親を施設に入れるという固い決意も折れてしまった。
ちょうど入院してから1カ月がたった。まもなくクリスマスを迎えようとしていたが、仕事中に電話があり、父の意識がなくなったから病院に来てほしいとのことだった。駆けつけると医者が説明してくれて、「今日明日が峠ですね」という。
「俺の家の話」では、西田敏行が危篤状態になり、集まってきた家族や知り合いたちが、三多摩プロレスの掛け声、「肝っ玉、しこったま、さんたまー」を唱和すると、奇跡的に回復するというシーンがあったのを思い出した。うちのおやじは96歳。人間国宝でも何でもない。しかし、ドラマのように、「肝っ玉、しこったま、さんたまー」と心の中で叫んでみた。家に帰り、さっそく葬儀屋を探した。電話すると、特に予約は必要なく、「お亡くなりになられてからお電話していただければ結構です」
「予約いらないんですか。夜中でも大丈夫なんですね」
それにしても、入院してから一か月もたったのに、僕は何も準備していなかった。イスラエルのガザ侵攻ですっかり心はそちらに奪われていた。それでもって、病院にお見舞いに母を連れて行っても、すっかり忘れ、何度も連れていけとせがまれ、行けば行ったで病院では、大泣きし、また家に帰ると、お父さんはどこ? といった具合に振り回されるのも疲れてしまい、週末は病院に行かなかったのだった。覚悟はしていたものの、新聞に載った記事とか見せたいものもあったし、孫にもあわせたかったし、これからどうするんだろうなどかんがえていたのだ。
朝、電話がかかる。いい知らせか、悪い知らせか?
「意識が戻りました!」
母はというと、昨日父が死にかけたことなどは、全く覚えていないという。まあ、それは良しとしよう。僕は、新聞記事と、パレスチナの子どもが描いてくれた絵をポスターにして病院に持っていき、病室に貼りまくった。殺風景だった病室もにぎやかになった。
「メリー・クリスマス」
クリスマスだというのにガザでは、危機的な食糧不安のニュースが流れる。
オヤジは、その後40日生きた。僕は、オヤジとか、オフクロとかそういう親子の関係性みたいなのが嫌だった。誰しもが思春期にはそういう風になるのだろうか? オヤジのこともあまり好きになれず、逃げるようにして海外に出て行った。ところが知らず知らずのうちにオヤジは、僕のやっていた国際協力を陰で支えてくれていた。僕もオヤジが喜んでくれるように活動に力を入れる事が出来たのだと思う。
看護師が、酸素ボンベを止めると、シューという音が途切れた。
葬儀屋がやってきて僕は廊下に出されて待っていた。
アディオス・ノニーノ!さようなら