話の話 第22話:びっくりする

戸田昌子

ちょっと、びっくりするくらいの量のクローブがうちにあったので、京都の下鴨ロンドへ持ってきた。金曜日の夜、すっかり暗くなってからロンドに到着すると、誰かがご飯を作っている匂いがする。キッチンをのぞくと、先日、ラオスから帰ってきたというIさんである。いい匂いにつられてキッチンの椅子にそのまま座り込み、そういえばIさんの本棚のご本がとっても面白かったですよ、たくさん書き込みがあってね、なんて、他愛のないおしゃべりを始める。あの本によると、フムスってもともとひよこ豆で作るんじゃないんですってね、そら豆だって書いてありました、Iさんの持ってらした本に。へえ、そんなこと書いてありましたか。

そんな話をしていると、ノセさんが帰ってくる。ノセさんは下鴨ロンドの管理人である。あ、Iさん、このお米、少しもらってもいいですか? とノセさんが言う。あー、いいですよ、3合炊いたから。なんて話をしながら、誰ひとり上着は脱がないままである。なぜならこの家は、築92年の和洋折衷住宅で、びっくりするほど寒いから。そもそもぼろぼろの廃屋だったのを、シェアメイトが協力して修繕しながら使っている施設なので、隙間風がよく抜ける。よく見てみると、壁にはちょこちょこと穴があいているし、窓ガラスだって割れたままのところがいくつもある。カーテンはレールからずり落ちそうだし、冬はどうしたって寒い。京都は盆地だから冬はただでさえ寒いのに、下鴨は京都駅あたりからは標高が高いため、さらに冷え込む。いい匂いに惹かれてキッチンから離れられないというのに、寒くてしょうがないのである。

あ、うちのクローブ、たくさんあったから持ってきましたよ、とわたしがカバンから瓶を取り出すと、「クローブって何に使うんですか?」とノセさんが尋ねる。ノセさんは質問と合いの手の名手である。ああ、これはね、クリスマスパーティで作るカスレに使うスパイスなので持ってきたんですけどね。これ、釘みたいな形してるでしょう。玉ねぎに刺したりしてバラバラにならないようにしてから煮込んだりします。とわたしは説明する。へえー、クローブってチャイに使うくらいしかわかりません、ぼくいまチャイ練習しているんですよ、イベントで出そうと思って。ああ、これはね、あれですよ、ホットウィスキーに使えるんです。やってみますか? レモンをスライスするでしょ、そこにクローブ5個くらい刺してね。ウィスキー入れて、はちみつも入れてね、それからお湯を入れるんですね。と、わたしがクローブの瓶を片手に力説していると、Iさんが目を丸くして、「そうやってスパイスの説明をしているトダさんって、まるで媚薬の調合をしている魔女さんみたいですね」と言い始める。「あ、わかります!」と合いの手上手のノセさんがすかさず言う。いや、それは、わたしが着ているコートが真っ黒なせいではないか? と疑問を抱きながら、わたしは媚薬ならぬ、ホットウィスキーを作り始めている。

このクローブは、実家の調味料棚からわたしがサルベージしてきたものである。「実家の調味料棚」というパンドラの箱にわたしが手を突っ込み始めたのは昨年ごろからである。母が怪我をしたのをきっかけに、台所の主が母から父へと移譲され、少々整理が必要になったのである。それで賞味期限切れの調味料を捨て始めたら、賞味期限が20世紀のものまでがみつかって、びっくりした。クローブには賞味期限が書いてなかったのだけれど、実家では誰も使いきれなさそうなすごい量だったので、あちこちでもらってくれる人に押し売りしている。

びっくりするくらいの量、と言えば忘れられないのが、一番上の姉が17歳のときにもらったバラの花束、という話が、我が家では連綿と語り伝えられている。そのとき高校生だった姉の17歳の誕生日の夜、ピンポンと玄関ベルが鳴った。ようこちゃんのお友達よ、と言われて玄関に出て行った姉が抱えて戻ってきたのは、見たこともない大きなバラの花束と白い大きな箱。うわ、すごい、このバラ17本もあるよ、ときょうだいで数えてびっくりしていたら、箱から出てきたのは、三段重ねのショートケーキ。なにこれ、3段もあるじゃん! と弟妹たちがワイワイ騒いでいると、これ、XXが作ったんだって、自分で……と姉が言う。XXはケーキ屋さんの息子なんだよ、だから自分で作ったんだって、と姉は説明する。華やかな浮ついた話題に事欠かない姉ではあったものの、XXは彼氏でもないのに、すごいねぇ、と全員が度肝を抜かれてため息をついた、という話。

ここのところ、原稿が書けないので、パソコンと本を抱えて、近所のチェーンの喫茶店に来ている。窓際に並んだソファのひとつが空いていたので、そこに陣取って、パソコンを開ける。とある写真家の、夫婦関係から生み出された写真について書いているわけだけれど、他人の夫婦関係なんて犬も食わないので、もつれた愛憎関係について何を書けばいいのか、書いてはいけないのか、悩み果ててわたしは顎をつまんでいる。するとひとつあけた隣席の、わたしより一回りほど年上の女性の二人組が延々と誰かの話をしている。

ヤスコは考えなしで感情のままなのよ

へえ、ヤスコは考えなしなのか、と聞き耳を立てながらキーボードを叩いていると、年配の女性が続ける。

ケイスケはなんでもミズエにおっかぶせてさ。ヤスコがいろいろ言ってくれてもそれだから逆効果。あの人がもう独特だったからね、感情の明かし方とかさ。もう、すぐキレるしさ

ケイスケってヤバめのひとなのかな。DVとか、それってまずいじゃん

ヤスコもミズエをかばうしかない。だってヤスコにそれ言ったら、それしたらミズエを諭すようなこと言うと思うよ。ヤスコはなんとなくわかってるけど、口にしないんだなって。それにわたしとケイスケの間はね、変なことで誤解するのよ……(間は聞こえない)……ジジツはあったんだと思うんだけど

ん? ジジツ?

だから、ケイスケが勝手に貸してるみたいね、それはだってね、間の鍵も閉めてるけど、チェーンもしめてる。絶対勝手に入れることはない。それなのにミズエが……(間は聞こえない)……だから、ヤスコは心外だと思ってる。それにあたしだってずっと一緒にいられるわけじゃない。ほら、内容は恥ずかしくて話せないけどね、こんなながーいのがきてる……ヤスコが送ろうとしてやめた形跡があるのよ。びっくりしちゃうわよこれ

そう言いながら年配の女性が携帯を示す。ケイスケはだれのなんなのか、なにがびっくりしちゃうのか、気になりっぱなしで、わたしの原稿はぜんぜん進まない。

びっくりした、と言えば、久しぶりに古い友達から電話がかかってきた。「戸田さん久しぶり。S野です。お元気ですか」と懐かしい声である。「いや、ぼく、死にかけましてね」といきなり、びっくりすることを言い始める。「えええ!」と相槌を打ちながら、話が長くなることを予感する。彼とはじつに四半世紀ほどの付き合いで、いつも長電話になるので、電話を受けるときは覚悟するのだが、電話を受ける前にトイレに行かなかったことにすでに後悔しているわたしである。家人が電話を受ける家電なら、先にトイレに行くのだけれど、携帯電話というのはこういうとき不便である。彼の声が大きいので携帯電話から漏れていて、それを横で聞いている娘がすでに笑いを噛み殺している。娘は彼とほとんど会ったこともないのだが、わたしが彼の退屈なほど生真面目な話し方をよく口真似しているので、娘は彼を知った気になっている。

彼の常識人ぶりは、我が家で時々、話題になるほどのレベルである。彼は家電にコールする癖があるので、夫が最初に電話を受けることが多い。ある夜、電話がかかってきたのだが、その電話の鳴り方がなんだか生真面目な調子なので、どうもS野君ぽいなと思ったのだが、別室の電話を取るのが面倒で放っておいたら、夫が電話に出た。「S野さんだよ」と言いにくるだろうと待ち構えていると、夫がなにやら話をしている様子がうかがえる。あれ、夫の友達なのかな、と思ってそのまま忘れて30分ほど経過。すると夫が子機を持ってきて、「S野さんだよ」と言う。え、夫と面識もないのに一体なにを話していたのか、とびっくりしながら子機を受け取り、「どうしたの? 夫と何話してたの」と言うと、「ああ、世間話」と言う。面識もない友達の夫と30分も話すことがあるのか、とびっくりしながら、とりあえず1時間ほど話して電話を切る。話の内容が気になるので、その後、夫に「S野君と何の話をしてたの?」と尋ねると、「ああ、世間話」と言う。返事までまるで同じとは、彼の常識人ぶりには感染力がある。

このS野君と美術館のミュージアムショップをうろうろ歩いていたときのこと。ガンダム事典といった感じのとても大きな本がちょうど出版されていたので、「おお、ガンダムだぁ」とわたしが言うと、「おや、戸田さんガンダム好きですか」と彼が言い始める。「ええ、好きですよ、兄がガンダム世代だし。もしかしてS野君もガンダム好き?」と尋ねると「ええ、好きですねぇ」と言う。その言い方が、かなり好きそうな雰囲気を醸していたので、つい突っ込むと、やはりかなり好きらしい。「でもこの年になると、あれですよ、ミライの良さが分かるようになりましてね。若い頃はやっぱりセイラさんがいいってみんな思うじゃないですか。でもやはり、いいのはミライですよ」などとぶつぶつ言っている。

帰宅してその話を夫にすると、「えっ」と驚く。「だって、ミライってファーストガンダムのなかでは一番のモテ女じゃん」と言い始める。そう、ミライ・ヤシマは、親の決めた婚約者カムラン・ブルームから遁走して、ガンダムの若き船長であるブライト・ノアといい感じにデキかけているのだけれど、ファイター乗りの伊達男スレッガー・ロウ中尉に心奪われるが、ノアの陰謀(?)によって戦死してしまい、結局はブライトと結ばれる、という、ファーストガンダム随一のモテる女性なのである。ミライはセイラさんほどの美女でもなくお姫様でもないが、母性の強いタイプという感じで、言い寄られるとフラっとしがちな弱さも魅力で、なにしろモテる。そんなミライは、食べ物に例えるなら食堂のカレー、幅広くいろんな人に好かれるタイプなのに比べると、セイラさんは真逆。セイラさんは言わばキャリア志向の強い孤高の女性で、フラフラしてる男性には「この軟弱者!」と一括しながらつい平手打ちのひとつもお見舞いしてしまうような強い女性で、美女なのに浮ついた噂もひとつもない。だいたいさ、ミライはS野君にオトせるような女性ではないよねぇ、とふたりでニヤニヤしながら話している。「だいたい、どっちかってえとセイラさんタイプのわたしの前でそれ言うのって、わりと失礼よね?」と言うと夫「女を見る目がないな」と一刀両断。ちなみにS野君は独身である。

娘は最近、推しが結婚発表したので大騒ぎである。このふたりはきっと結婚する! と予想していたカップルであったので、娘は嬉しくて仕方がない。朝からスマホを眺めてはニヤニヤしている。すると突然叫び出す。「ニヤケ顔でFace IDが5回も通らない!」えっ、そんなことあるんですか。そもそも娘のニヤケ顔なんて見たことなかったから、こっちがびっくりである。

11月、2週間あまりかけてフランスに行ってきたので、ワインをよく飲んだ。トゥールの妹の家に滞在していた間、妹とその夫のフレッドともよく飲んでいた。「わたし、オーガニックの白ワインなら悪酔いしないんだよね」と妹が言うので「そうよね」と相槌を打ちながら「それにしても、昨夜はわたし一杯しか飲んでないのにだいぶ酔ったのよね」と言うと、妹「なに言ってんの、まあちゃん? わたしとフレッドであなたのグラスに注ぎ続けてたじゃん、わたしはたくさん飲まないしフレッドも赤を飲んでたから、あのワイン、ほとんどあなた1人であけたのよ」と言う。それは一体、どういう1杯やねん、とびっくり。

「かあさんの歌」という童謡がある。そもそも、かあさんが夜なべして手袋編んでたあいだ、とうちゃんは一体、何してたんだという問題について、夫と議論になったことがある。旧Twitterで投票を募った結果、298票の投票があり、最終結果は下記のようになった。

酒飲んで寝てた
23.8

出稼ぎで不在
31.5%

出稼ぎ先で酒飲んで寝てた
20.5%

死別
24.2%

「酒飲んで寝てた」「出稼ぎ先で酒飲んで寝てた」を総合すると44.35%という結果になった。結局、酒を飲んでいた、という、これは予想通りのびっくりではない意見が多かった。みなさん、飲み過ぎには注意しましょうね。