ふと、メモ帳を開いたら、「ハーシェルのシャボン玉」と書いてある。一体なんのことだろう、自分が書いたメモなのに忘れている。ハーシェルといえば、われわれ写真関係者にとっては写真術黎明期の立役者であって、青写真を発明したり、定着液「ハイポ」を発明したジョン・ハーシェル卿のことだと決まっているのだが、あらためて調べてみると、これはジョンの父ウィリアム(ヴィルヘルム)のことのようだ。ふたりは親子ともに科学者で、父ウィリアムは天王星を発見した天文学者として知られるが、もともとは音楽家であったらしい。ドイツ生まれでイギリスへ渡り、その功績によってサーの称号まで得た人物。
シャボン玉というのは、ウィリアムが発見したカシオペヤ座のNGC7635のことで、その名をシャボン玉星雲と呼ぶ。わたしのメモは息子のジョンとウィリアムを混同しないよう調べていたときの残りだったようだ。けれど、カシオペヤ座には空気がないから、もちろんシャボン玉はつくれない。
ほんの小さな出来事に愛は傷ついて
君は部屋をとびだした
真冬の空の下に
編みかけていた手袋と洗いかけの洗濯物
シャボンの泡がゆれていた
君の香りがゆれてた
シャボンと言えばやはりこの、チューリップ「サボテンの花」ではないだろうか。この歌詞のなかで洗濯をしていたのはおそらく「君」で、彼女をあわてて追いかけて路上に飛び出し、あてどなくさすらってから(きっとひとりで)戻ってきた「僕」が、いつの間にか動きを止めていた洗濯槽にふわふわと浮いていたシャボンの泡を見つけた、という情景のようだ。あるいは1975年という発表年を考えれば、シャボンの泡が浮いていたのは、たらいと洗濯板の上だという可能性だってある。なにしろ時は「同棲時代」なのである。上村一夫の漫画「同棲時代」が『漫画アクション』に掲載されはじめたのは1972年のことだというから、「サボテンの花」のふたりはきっと恋人同士だけど婚姻関係の手前だと見られるので、同居を匂わせる情景として「洗濯」というワードが登場したのだと見られる。加えて「シャボンの泡」は、ふたりの関係がはかなく終わることを予感させる記号でもあるだろう。同棲関係の醸し出す爛れた色気(同じシャボンの匂い……)と、仄めかされる関係の儚さ(シャボンの泡のように壊れやすい……)、というふたつの意味が込められているのがこの「シャボンの泡」なのである。
高校生のときに、この歌にあわせて踊ったことがある。鴻上尚史の戯曲「天使は瞳を閉じて」(第三舞台)を演劇部で上演したときのこと。この舞台には挿入歌として「サボテンの花」が登場するのだけれど、ストーリーとはなんら関係なしに、この曲がかかったとたん、全員がいきなり踊り出す、という演出があった。
わたしはこのとき、「天使」という役をやっていた。この役はナレーター的な立ち位置で、天使の姿は人間には見えないから、天使が人間に話しかけても、一生懸命、励ましても、誰にも気づかれない。だからストーリーとは関係なく、みんなと一緒に踊れる「サボテンの花」の場面だけは特別で、好きだった。
ちなみに、「天使は瞳を閉じて」という作品には、ひとつ、嘘が出てくる。マスターがケイに向かって、「あれは嘘だった」と告白する場面。いつかケイが失恋に泣いていたとき、マスターがケイに向かって「傷つけば傷つくほど人は優しくなれる」と言った言葉が「嘘だった」とマスターは言い出す。なぜなら、傷つくほど底意地が悪くなる奴だっているのだから。そうやって謝るマスターのこの嘘は、いわゆる「優しい嘘」だったと言えようか。確かに、傷ついて優しくなる人間と、底意地が悪くなる人間とでは、どちらかといえば僅かに後者の割合が大きいようだ。
そういえば、本日4月1日はエイプリルフールである。東京は濡れそぼる雨がいつ雪に変わってもおかしくないといった、まるで嘘のような天候。「だいたい今日は嘘をつかないといけないっていうのに、人に会う予定がないんですよ」と鳩尾がこぼす。「鳥がいるじゃないですか。鳥に嘘をつけばいい」とわたしが言うと、「なに言っているんですか、動物を騙しちゃぁいけません」と鳩尾はまなじりを吊り上げる。それなら人間なら騙してもいいんかい。そうでなくても鳩尾は「うちは宮家なんで」などと、人間にはさらりと嘘をつくのである。それを非難しても「そんなの信じるなんて誰も思わないじゃないですか」とうそぶく鳩尾は、動物にはとても優しいのに、人間にはわりと冷たい。「だいたい鳩尾は動物に優しすぎるよ! もしあなたがヤモリに向ける優しい眼差しの半分でもわたしに向けてくれたら……!」とわたしもついつい愚痴が出てしまう。「向けてるじゃないですか!」「いや、視線の尖り方が全然違う!」と、不毛な言い争いが始まる。
ちなみにうちの動物たちは四六時中、口からでまかせを言っている。「オレは東大を出た!」といつも威張り腐っているクマは、ボチ夫に「それって東大の校門を出ただけじゃないんですか」と突っ込まれたりしても動じない。そもそも東京大学は近隣住民には寛容なので、門を出たり入ったりするだけなら、入試期間を除けば基本的には自由である。それに東大には門がたくさんあるので、門の種類も選び放題である。赤門から入って正門を出るなんて普通だし(東大の正門は赤門じゃないことにはご注意)、バスユーザーなら車両に乗ったまま竜岡門から入ることだって可能だし、弥生門から出れば千代田線にはアクセスがいいし、達人ともなれば鉄門を使ったりする者もあるわけである。わたしがよく「東大なんて誰でも入れる」と言い放つ所以がそこにはある。それは、決して、嘘ではない。
そもそもクマはホラばかり吹いている。「オレさぁ、Googleの内定けっちゃってさぁ」などと、思いつきを適当に吹いているクマ。他にも「オレはウィンブルドンのセンターコートに立った男だよ?」などと言っているのだが、ボール拾いの少年たちだって、掃除夫のお兄ちゃんだって、ウィンブルドンのセンターコートには立っていると思う。一方でヒツジのミントは、自分は有能な執事(シツジ)であると主張して譲らない。しかし家の主人に取り入っては私腹を肥そうとするその態度は、執事というよりは側羊人と言うべきで、そろそろ「ヒツジ沢吉保」と改名してはどうだろうか。
世界には嘘みたいな言葉というのがいろいろあるのだが、最近知ったのは「女房にめっぽう甘い」を意味する「uxorious」という言葉。これは「ユークソーリアス」というように発音するそうで、ユグゾリアス、というようには濁らないのが珍しい。「妻にあまりにも多くの愛を示す」とか、「奥さんにベタ惚れで頭が上がらない」といった意味のようだが、語源をたどれば「妻」を意味するラテン語の「uxor」が元にあって、16世紀から17世紀にかけて、英語にuxoriousという言葉が登場したのだという。どちらかと言えばこれは「尻に敷かれる」というニュアンスのある言葉だそうだが、これらのことはすべてChatGPTが教えてくれたことなので、嘘かほんとかわからない。
クマの彼女のローズちゃんが叫んでいる。「好きなものですか?長いものです!だって巻かれたいから!」
嘘と言えば、だいたい、夢では嘘みたいなことばかりが起こる。小学生のころわたしはシャーロック・ホームズにどハマりしていたのだが、そのころ、ホームズが人喰い人種にさらわれて、ワトソンが助けに行く、という夢をみたことがある。普段は活躍しないワトソンが馬車を走らせている場面は切迫感があってなかなかかっこよかった、と今でも鮮明に覚えている。もうひとつ、この頃の夢で印象的だったのは、黒い覆面にマントを着た男が、悪夢からの目覚め方を教えてくれる、というものであった。
その夢の舞台はわたしの実家の印刷屋であった。印刷屋の1階は土間になっていて、そこには壁一面の文選棚と大小の印刷機が林立し、文選箱が山積みになっていた。2階へと続く階段は木製で、滑り落ちても子どもなら怪我もしないくらいの可愛らしいものだったので、だから喧嘩のときにはついつい妹を突き落とした、というわけではないのだが、よく子どもたちが滑り落ちて、つるつるになっていた。そのとき夢の中で、土間の玄関に来客があった。それは3人の男性で、階段をそっと降りて覗きに行ったのだが、話しかけられるのを恐れて戻ろうとしたとき、階段の上のところに覆面の男が立っていた。どうしよう、と立ち止まったそのとき、男が「怖いか」と言うのである。わたしは今も昔も問いには正直に答える人間なので、「怖い」と素直に答えると、男はうなづいて「これは夢だ」と言う。「これからもし怖い夢を見たら、」と男は続ける。「まばたきを3回しなさい。そうすれば目覚める」。
わたしはそこで、半信半疑で、3回まばたきをして、夢から目覚めた。嘘のような、本当の夢の話。
目、と言えば、人間の目というのは、いい加減で繊細な構造をしている。ハーシェルのシャボン玉のことを調べていたとき、「そらし目」という目の使い方について書かれたものを見つけた。視点が合っているところの周辺を使って観測する、という目の使い方の技術が「そらし目」で、うっすらした星雲などを観測するのに向いているのだとか。なぜなら人間の目は暗いところでは周辺視視力がいいために、むしろ直視すると見えないのだ、というのが根拠のようだが、これも本当か嘘か、いまいちわからないような話でもあり、その確実性については諸説あるようだ。
わたし「実はこのそらし目、わたしもふだん肉料理や魚料理をするときによく使ってるよ!」
B氏「それはむしろ見えないようにするために直視してないから、普通の「直視しない」ですね」
わたし「……」
みなさん、4月1日だからといって、「原稿は今日中にあがります」などという罪深い嘘をつくのはやめましょう。