編み狂う(6)

斎藤真理子

時間は、本当は均等になんか流れていない。
編み物をする人はみんなそのことを知っている。

1分が1分でなく、10分にもなり、それどころかとうてい測れないほど長くなることもある。それはたぶん「長い」という形容詞では表せないものだ。「濃い」というべきかもしれない。

「時間つぶし」とは反対で、そこでは時間が暴力的にふくらむ。「すきま時間」なんていうものじゃない。予定と予定の間にはさまれて大人しくしているようなタマではない。満腹なはずなのに別腹ができてデザートを飲み込むように、時間にも脇芽のようなものができて、それがどんどん繁茂する。それがどんどん編みふける。時間は決して一直線ではなく、複線で、サルガッソーみたいで、それが糸に手を伸ばしたら私たちは後を追っかけていくしかない。

編み物の時間には濃淡がある。濃度が最大に達したときのことを覚えている。そういうのを測量するカウンター(ガイガーカウンターみたいなの)があればぴーぴーぴーぴー鳴りつづけて、みんなににらまれそうだったとき。

朝、最大限に会社に行きたくなかった。行ったら会社の偉い人に、いま抱えているこの無理難題について説明を求められるに決まっていて、言い訳のしようがなかった。

満員の地下鉄の中で、なぜこの状況でわざわざ窮鼠(私)は猫の巣に向かうのだろうかと思い、生物の本能に背いているのではないかと思い、辛いのは心があるからだ、人間だからだ、有機物だからだと思い、無機物になればいいんじゃないかと思い、それならばと無機物の気持ちになり(無機物にたぶん、気持ちは、ないが)、無機物になったつもりでつり革につかまってみたが気分がましになるわけがない。

定時ちょっと前に会社のそばに着いてしまったが、会社の建物に歩いて入っていける気がしない。電話を入れて帰宅しようかとも思ったが、そうしたら明日がもっときつくなることがわかっていた。電話を入れて、一時間遅れると伝えて、カフェに入った。

そして無機物になって編んだ。ものすごくはかどった。竹の編み棒が羽根のよう。多分カフェの中で私のいる場所だけ、ほかと気圧が違ってたんではないかと思う。私が火事場の馬鹿力を発揮していた一時間。

あんな一時間がいっぱいあったらセーター一枚なんかあっという間じゃないかと思うし、そもそも、そんな馬鹿力が出るなら仕事に活かせばよかったんじゃないかと思うけれども、現実はそうはいかない。ただ、時間が最大限濃厚に、ねっとり流れるときは、決して居心地の良いシチュエーションではないという一例だ。

一時間が過ぎると無機物は編み物をまるめてバッグに入れ、「無機物だから心はない」と自分に言い聞かせて、猫に飲まれるために会社の建物に入っていった。その後たぶんものすごく居心地の悪い時間があったと思うが、よく覚えていない。有機物は都合よく記憶を始末する。

ああいうのは、窮鼠猫を編むというか、追い詰められた時間なので、いくら火事場の馬鹿力を発揮したって別に嬉しくはない。

でも、そういう時間ばかりではない。編み物をしていると、時間がいろいろな形をとる。

歩いていけるところに、昔住んでいたアパートの跡地がある。今は取り壊されて、駐車場になっている。子どもと二人でそこに暮らしていた。保育園時代から、小学校五年生のころまで。

鉤の手の形をしていたアパートがなくなり、その分視界が開けて、向こうの景色が道から見える。自分が知っていたのとは違う空気が流れている。あそこの二階に住んでいたんだよ、と思って空中を見ながら通り過ぎる。

あそこにいたころ、たぶんそのころ、編み物の時間は粉だった。余暇はなく、あるいは余暇は分単位で、秒単位で、でも顆粒か粉末かわからないけれどもそれはたぶん一日の上に、振りまいてあった、まぶしてあった。だからうずくまってそれを拾っては、一目一目編みつないでいたと思う。

あの家で編んだものは今もまだしゃんとしていて、凝った編み方で、編み目もそろっていて、最近編んだものよりずっときれいだ。どこからこんなものが出てきたのかと思う。これを編んだのは私だろうかと思う。 

アパートだったところが駐車場になり、その先に大きなびわの木が見える。住んでいたときには見えなかった木だ。

そこに私がいた証拠など一つもなくて、その向こうで知らない大きな木がゆっくりと葉を揺らしている。足を止めてそれをじっと見ていると、来世ってあんな感じなんじゃないかと思えてくる。

私がいっとき生きて、何をやったかには全く頓着なく風が吹いている。あの木の向こう側に私が回って、こちらを見ていることを考える。

来世からこちらを見る私は、時間が均等に流れていないところを探し、そこで編み棒を持っている人を見つけたらサインを送るだろう。けれどもその人は気づかずに、今日は異様に編み物が進んだと思うだろう。時間の濃いところを踏んで明日に渡るだろう。どうして編み物をしていると時間はあっというまに経つのだろうと、編み物が生まれて以来大勢の人が思ったことを同じように思いながら。