編み狂う(10)

斎藤真理子

 いちばんいい編み物は編みかけの編み物だ。そんなことわかっている。
 完成した編み物はつまらない。なぜなら、もう編むところがないからだ。それもわかっている。

 何度も書いた気がするが、縫い物は、生地を裁ったら後戻りできない。でも編み物は途中でどうにでもなるしどこにでも行ける。色も形も変えられる。セーターのつもりだったのをワンピースにしたっていい。いや、実際にはそんなことしない。その自由を使う可能性はほぼ、ゼロ。でも、行使しない自由であっても、保証されているのといないのでは大きく違う。

 昔、昼間は解体現場で働いて夜は彫塑をやっている知り合いがいた。お天道さんが出ている間は壊し、お天道さんが沈むと作る。結局プラスマイナスゼロで、さっぱりした顔して暮らしていた。人体彫刻を五〜六個、ずーっと手入れしつづけて、いつまでも出来上がらない、そういうのが理想ということだった。
 それはわかる。私もできればずっと編んでいたい。でも、彫塑なら半永久的に作っていられるのかもしれないが、編み物は編んでったらどんどん伸びてしまい、どこかできりをつけないといけない。
 だから一応、ウエアの形に落とし込んで、完成形を設定している。それは私が選んだことであり、編み上がるときが来てしまうこと、いつか仕上げなきゃならないことはわかっている。けれども、それによって失われるものが何て多いことか。いうまでもなく、自由を失うということだ。

 パーツの間はまだ、どっちにでも行ける。融通無碍、当意即妙、縦横無尽が揃っている。だがパーツが編み上がってしまうと、「とじ・はぎ」という別世界にワープしないといけない。そこには陶酔はない。
 まず、前身頃と後ろ身頃をとじなくてはいけない。ちなみに、ここでヘタを打つと、着ているときに脇腹のところがたるんだりシワがよったりしてみっともないから気を遣う。丁寧にピンを打って、確かめながらとじていく。
 とじ終わると胴体ができる。これで頭を突っ込むことができるようになるが、その代わり融通無碍が失われる。
 次は袖を丸めて端っこと端っこをとじる。腕を突っ込むことができるようになるが、その代わり当意即妙が失われる。
 そして袖つけ。胴体と袖をつなぐのだ。こうなるともう後戻りができません。これをやるとセーターとかカーディガンとか呼ばれる全体像ができてしまう。はた目には、目標達成にぐっと近づいたことになる。だが縦横無尽までが失われて、いつでもほどけるという自由がほぼゼロに近づく。がんじがらめである。
 とはいいながら、私はこの作業に全神経を集中させる。だって素人くさいセーターやカーディガンの8割は、袖のつき方がモコモコしてださいのだ。
 だからヘタを打たないように、また丁寧にピンを打ち、息を止めて一気に、かぎ針で引き抜き編みをしていく。この作業はなぜか、中腰の気持ちで、追われるかのような心境で一気にやってしまう方がいい。ゆったりした気持ちで、片づいた部屋で、満を持して作業したりするとたいてい失敗する。

 これが終わってもまだ、完成ではない。パーツどうしをくっつけただけでは着られないからだ。袖も胴体も一体化して大物になった編み物に襟を編みつけ、袖口を編みつけ、裾を編みつけ、必要なら前立てを編みつける。これがダメ押しの儀式、がんじがらめをさらに強化する儀式である。
 その果てに、ゴム編み止めという、「強化がんじがらめ」にさらに因果を含める儀式を施す。忌み嫌っている人も相当に存在する、面倒な儀式である。これをやるともう、ほどくことはほとんど不可能になる。とはいいながら私は、ゴム編み止めもかなりうまい。嫌いな仕事ほど、文句をつけられまいとして構えて臨むので上手になり、だんだん愛着すら芽生えてしまう。

 そして、因果を含められたがんじがらめの半永久化という作業がこの後に待っている。ここまで来た編み物には、いたるところから糸端が飛び出している。そのままでは着られないので(いや、着たっていいが)、飛び出した糸を片っ端から針に通してとじ目や編み目にくぐらせ、隠していく。がんじがらめにしたという証拠を隠滅するわけだが、すると水面下でいっそうがんじがらまり、もう未来永劫ほどけない感じになる。にっちもさっちも。いや、ほどこうとすればほどけるんですよ、ほどく必要があれば。だけど、ほどく必要なんて生じない。ほどかないと糸がないとか、そんな切迫した理由は発生しない。それを言ったらそもそも今の時代、どうしても手編みをしなくてはならない差し迫った理由はないのである。

 そもそもが矛盾してるのだった。ずっと編んでいたいのに完成形を設定することも、ほどける自由があるからこそ編んでるときが陶酔なのに、ほどけないことを完成と呼ぶことも。
 だけどそもそも、昨日と今日がすんなりつながってたりはしない。我々の記憶も生活も、端を引っ張ったってすーっとほどけてきたりしやしない。とじて、はいで、言い訳して、糸端を隠して、自分から進んでがんじがらめになって、自分で自由を切り刻むのが生きることなのだと、そうね、こんなふうに、何もかもが何かの比喩であるみたいなことを言ってるうちに人生は終わってしまうだろう。一期は夢よただ狂えと閑吟集に書いてあった。そして、いちばんいい編み物は、編みかけの編み物である。