アジアのごはん(112)たらま島食日記

森下ヒバリ

たらま島に行ってきた。たらま島は宮古島の南西約67km、石垣島の北東約35kmの場所にある小さな島だ。人口は1000人ちょっと。牛の数は5000頭。宮古島空港から琉球コミューターの飛行機で飛び立って15分、青い海に浮かぶ丸い緑の島が眼下に見えてきた。丘はあるが、山はない。サンゴで出来た平らな島である。

今回の旅は、埼玉の小手指でたらまガレージというライブもする飲み屋のおとうの里帰りに、ミュージシャン2名とそのファン、店のファンが一緒についてきた、という形である。まずは宮古島でライブをやって、翌日飛行機でたらま島へ飛ぶ。たらま島では今回の旅のプロデューサーの佐久間さんが車で見どころを案内してくれる。

まずはお昼ご飯だ。たらまのおとうの義理の弟さんからここに行けと指令されたのは、できたばかりの「たねび食堂」という店。席が空くのを待って、店に入るとメニューは「たらまそば」と「たらま牛丼」のふたつ。悩む間もなく、今日は牛丼はないとのことで、たらまそばを頼む。

沖縄地方の「そば」というのはご存じの方も多いと思うが、一昔前の鰹ダシで醤油味の中華そばに近いものだ。宮古島では太めの中華麺に豚バラの煮つけ、てんぷら(かまぼこ)、ねぎが標準装備である。

たねび食堂のたらまそばも、同じく3点セットなのだが、宮古島であまりおいしい宮古そばに当たらなかったので、期待せず割り箸を割った。小さな島なので、営業している店は少ない。食べられるときに食べておかないと・・あ~また豚バラ肉かあ・・箸で取って口に運ぶ。んんん、んんま~い!豚バラがふわっとほどけて肉の油がとろんと舌に溶ける。最高。

宮古島滞在中で食べていたそばの豚バラ肉はちょっと臭みがあって、けっこう気持ち的に「もう、豚バラは食べたくないです」となっていたし、どこも味の素がたっぷり仕込まれていたので、この味はうれしい。紅ショウガも載せて、ずずっといただきました。化学調味料や添加物の入っていないスープもあっさりとしているが滋味深い。大きな肉の固まり、ぺろっといけた。宮古島に三日間いて、おいしかったのは2日目の夕食、居酒屋「志堅原」のみだったので、かなりテンションが下がっていたのだが、急に元気になってきた。

食後に島を回り、たどり着いたのが「たらま民俗学習館」。いわゆる民俗資料館ですね。たらま島の歴史とか、祭りの写真、昔の農工具や漁の道具、食器などが展示されている。大きな巻貝をヤカン代わりに使っていたり、シャコ貝の小さいのを湯呑代わりに畑に置いておいたり、ココナツのひしゃくとか、南の島らしい道具が並ぶ。そして、紙に書いて張ってあるたらま島の「食の変遷」という資料に目がひきつけられた。少し長いが写真から書き写してみよう。

紀元前1500年頃 
一、イノシシやジュゴン、魚、貝類、野草や木の実を採取して食していたと推察される。煮炊きには下田原式土器と呼ばれる素焼きの粗末な土器を使用していた。
十世紀ごろ
一、七~八世紀ごろ八重山地方で確立した根菜農耕文化が伝来したと推察される。粟・麦・豆類・ヤムイモなどの栽培。ヤムイモを利用したイノシシや野ブタの飼育など。
十五世紀頃
朝鮮国・李王朝の歴史書、李朝実録に、次のような記述がある。(一四七九年)
一、キビ、粟、大麦、蒜(ノビル?)ヤムイモなどがあり、土をこねて鼎(かなえ)を造り、これで煮炊きをする。
一、飯はこぶし大に握り、ハスの葉に似た木の葉に盛って食べる。みそやしょうゆ油、塩などはなく、味付けは海水のみでする。
一、家にねずみがいる。牛、鶏、猫を飼う。牛は食べるが、鶏は食べない。
一、昆虫に蚊、蠅、蝸がおり、蝸を煮て食べる。
一、肴には乾魚を用いる。鮮魚を薄切りにしてなますをつくり蒜(ノビル?)を加えて食する。
十六世紀頃
十五世紀同様な食生活だったのではないかと推察される。
十七世紀頃
十六世紀後期(一五九七年)砂川旨屋により中国から宮古島に甘藷が移入され、十七世紀の初め頃、多良間島にも移入される。
一、一六三七年から宮古・八重山地方に人頭税が課せられ、厳しい穀税(粟納)に備えることが精いっぱいで甘藷作は賑わず食糧事情はますます困窮を極めるだけであった。
十八世紀頃
一、食糧難を乗り切るためにソテツを移入し、クツバルニーと水納島に植え付ける。(一七二七年)
一、水納島ではシャリンバイやユリ根も救荒食として利用した。
十九世紀頃
一、唐黍、小麦、下大豆などが移入され、一部の家庭でみそが使用されるようになり、油脂、酢、塩なども伝来しているが、海水のみの味付けも依然として続いていた。
一、一九〇三年(明治三十六年)、人頭税が撤廃され、甘藷作が盛んになる。
二十世紀
一、一九一八年(大正七年)大豆が移入される。大豆製品が多く出回るようになり、この頃から食糧事情は若干緩和される。大正末期にはしょう油も移入され、一部の家庭で使用されるようになる。
一、一九三五年(昭和十年)この頃から戦時体制に入り食糧難を来す。
一、一九四三年(昭和一八年)後半からソテツ食となる。干ばつやサツマイモの病害虫の大発生により大飢饉となってソテツ食が続き・・
一、一九五九年(昭和三十四年)‥が襲来し食糧危機に陥る。・・三食中一食は米食となる。
一、石油コンロはやる。
一、一九六三年(昭和三十八年)この頃から米食が増える。
一、一九六六年(同四十一年)・・台風襲来、最大瞬間風速八五メートル。農作物被害甚大。
・・の所は読み取り不可能な箇所でした。

この小さな島には3500年ほど前から人が住んでいた形跡があるとのこと。それから島に渡ってきた人々は、ほぼずっと食べ物に苦労してきたようである。十世紀ごろまでは狩猟採集生活、その後は農耕も始まるが、海も豊かなのでそれなりに暮らせていたとは思われるが、十七世紀からの過酷な人頭税が島民を苦しめる。税を納めるには粟を作ってそれで納めなければならないので、ほかの作物を作る余裕がないのだ。

十五世紀の李王朝の歴史書、李朝実録に記されている食の有様が興味深い。まだ島には大豆も米もなかったので、味噌がないのは分かるが、調味料が塩もなく海水のみとは。本当なのだろうか。役人とかに知られると税として徴収されるので、黙っていたのではないのか・・。

塩は海水を日に干しさえすれば出来るし、保存も効く。そして、アジアの国々ではその塩を使って小魚を漬けて塩辛にして調味料、保存食としていた。それがいわゆる魚醤である。現在のイメージの液体の魚醤(ナムプラーやニョクマム)はその塩辛から液体を絞った工業製品で、ここ百年ぐらいに普及したものである。

調味料として塩辛の存在も書かれていないので、本当になかったのかもしれないが、ちょっと不自然な気もする。縄文時代から本土では魚醤や肉醤があったとされており、八世紀の万葉集にも長忌寸意吉麻呂の歌に「醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛(たひ)願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の煑物(あつもの)」という歌がある。

醤酢とはもろみ状の醤に酢を合わせた調味料。醤は肉や魚と塩から作るものの方がかんたんで時代的に早く、穀類や大豆から作るには麹が必要となり手間も時間もかかるので、そちらは高級品である。この歌の醤がもろみだったのか、味噌だったのかは分からないが、刺身に和えるなら酢味噌の方が合うよね。

たらま島ではライブの次の日におとうの義弟の邦さんが潜ってタコを取って来てくれて、バーベキューでたらま牛や、豚バラ串焼きなどとともにごちそうになった。大きなタコは、まずは炭火コンロで表面をあぶり焼いてから、海に戻って海水で洗ってぬめりを取り皮をむいて、刻んで酢味噌だれで供された。あ、醤酢だ‥。タコはぶつ切りにしたそのままでおいしく、オリーブオイルでマリネにしたい・・などと不謹慎に思いつついただく。
豚バラの串焼きの肉は前日に邦さんの連れ合いのアネットがたれに漬けこんでおいたもので、また豚バラですかと一瞬思ったが、一口食べたらめちゃくちゃおいしい。いくらでも食べられる。こんなに一度にたくさん豚バラ肉を食べたのは初めてではないか。たれに地元のシークワーサー(酸っぱいかんきつ)の果汁を入れるのが秘伝らしい。まん丸に握られたこぶし大の豆ごはんのおにぎりもおいしかった。

宴会は続いていたが、食べ疲れたので、砂浜でひとり昼寝をした。サンゴの白い砂に、たくさんの白化したさんごのかけら。ああ、砂の上に寝っ転がるのは二年ぶりだ。海に入ると青や黄色の小さな魚が群れている。眺めていると大きなウツボがするするっと顔の横を通り抜けた。うわわっ。

豊かな海と濃い緑の島、奪うものさえいなければ人々は飢えることはなかっただろう。