編み狂う(11)

斎藤真理子

 商店街のカフェでよく編んでいた。歩道を行く人が見える席で、コーヒーが冷めてもまだ編んでいた。

 編みものをしているとときどき話しかけられる。多くは編み物の好きな人、年配の人だ。

「ね、何編んでらっしゃるの」(カーディガンです)
「今着てらっしゃるのも、編んだものなの」(そうです)
「すてきねえ、似合っているわねえ」(これは儀礼的な言葉だ、でも、よい儀礼である)
「でも難しそうな編み方ねえ」(複雑な編み方で糸がいっぱいかかりますと答えて、同情してもらう)
「私も前はいっぱい編んだんですけど今はさっぱりやらなくなってしまったわね。やっぱり手編みはいいわねえ」(上手に編める方はみんなそうおっしゃるのですよね)

 感想は、この範囲を大きくは越えない。よく知っているお庭を巡回する感じで、この中ならどれを聞かれても困らない。
 お連れがいて、その人が編み物に興味がなさそうな場合「もうやめなさいよ、一生けんめい編んでらっしゃるのに」とたしなめられたりしている。年配の人が多いと書いたが、この商店街で三十年編み物しているうちに、自分も年配になった。

 編み物をしていると、親切な人と間違われるのか、こんなこともあった。
「お姉さん、編み物お上手ですね」とチェーンのカフェで話しかけられ、顔を上げると、大きく、生き生きした四つの目がこっちを見ている。「私も高校時代には編んでたけど」などと言われる。同年代かもうちょっと上ぐらい。たぶん二人姉妹で、横にお父さんとおぼしき方が座っている。
 そのうちだんだん様子がわかってきた。二人はお父さんの受診につきそって、近くにある大きな病院まで行ってきたのだ。疲れたのでここで休憩しているのだが、これから商店街で少し買い物をしたい。なので、差し支えなければその間、父の話し相手をしていてくれませんかと。
 それなら私も経験がある。全然かまわない、どうぞ行ってらしてくださいと送り出し、失礼して編み棒は動かしながら、お父さんと何十分か、ぽつぽつお話をした。大きな袋をいっぱい下げ、息を弾ませるようにして姉妹は戻ってきた。お父さんは貿易の仕事をしていらしたようだった。

 私は本を読みながら編み物をするが、ときどき韓国語の原書を広げていることもある。
 あるとき、いちばんリーズナブルなチェーンのカフェでそうしていると、横の席から「何の本ですか」と聞かれた。「韓国の小説です」と答えると「そう、そう」と返事が。
「そう、朝鮮語」
「はい、朝鮮語」
 洗濯を重ねた感じのワイシャツの袖口、背広の中の古びた毛糸のチョッキ。かなりの年配と思える紳士、椅子に杖が立てかけてある。
 ハングルの本を指して、「これは……」とおっしゃるので、韓国の女性の作家のもので、日本でも人気がありますと説明してみるが、あまり聞いてはいらっしゃらない。
「あ……」と言って、紅茶を一口。それから、
「朝鮮と韓国は、同じ民族なんですよ。ただ、思想が違うからね」。
 また紅茶をゆっくり飲んで、
「韓国と朝鮮はね、同じ民族ですよ。思想が違うだけでね」。
 何十年も、何度となくこんなふうに日本の人たちの前に立って説明してきたのであろう、そういう話し方で。
 このあたりには民族学校があって、子供たちが区民センターで伝統音楽や踊りを披露するときには、おじいちゃん、おばあちゃんたちもやってきて、じっと見ていたのを私も見た。 
 商店街のカフェではそんな人に会うこともあった。今はもうお目にかからない。
 
 商店街は劇場だと思う。お店をやっている人、買いに来る人、ときどき来る人、たまたま寄った人。みな一つの舞台にいる。
 元気にお店を守っていた人が、店を閉めてお客になって、シルバーカーをゆっくり押して歩いている。編みながら、カフェの窓からそれを見ている。道で会ったらあいさつをする。やがて家族に腕を取られて歩いている姿を見かける。そしてある日を境に、会わなくなる。
 
 劇場にはカーテンコールというものがある。みんなこの商店街での最後の日、カーテンコールをしてくれたらいいのに。もちろん誰にとっても、その日がいつなのかわかりはしないけれども。

 アーケードのある商店街を「銀天街」と言ったりする。銀天のさらに上空で、その人のいちばん優雅な身ごなしで、下で継続している人生たちに向けて、カーテンコールをしてくれたらいいのにと思う。
 その気配をとらえることができたなら、私は編み棒をしばらく上に向け、小さいあいさつをするだろう。