輪編みという編み方がある。
輪編みとそうでない編み方(平編み)は違う。えら呼吸と肺呼吸ぐらい違うと思う。 どっちがえらでどっちが肺か、知らないけれども。
平編みは、一段編んだらひっくり返して裏から編む。それをくり返す。そして「表・裏・表・裏」のリズムが人を極限まで乗せて、「あと一段、」「あと一段」と思わせ、いつまでも編みつづけたくなる魔法をかける。
だが、編みはじめと編み終わりを結んで輪っかにしてしまえば、ずーっと表だけを見て編むことができる。これが輪編みで、輪針というものを使うか、棒針を四本ぐらい組み合わせればできる。
編み物学校に通っていたとき、「首から編み出すセーター」というのを習った。まず首が通る太さの輪っかを作って、そこから編みはじめる。途中で編み目を増やして輪っかをだんだん広げ、脇のところまで進んだら全体を三つの筒に分ける。身ごろ(胴体)と、二つの袖だ。それぞれをそれぞれにぐるぐるぐるぐる編んでいき、三つをちょうどいいところまで編んで目を止める。
面倒な製図がいらないし、綴じたりはいだりしなくていいので合理的だ。けれども、綴じたりはいだりしなくていい分、全部が一体になってるので編んでるとき重い。私は外に持ち出して編みたいので、これには困った。最後の袖を編んでいるときなど、アザラシ(それなりに、のたくる)をあやしながら編んでいるみたいで、肩がこるし、アザラシが嫌いになりそうになった。
それよりも、「あと一段」の魔法が解けて、ひとりぼっちの荒野に取り残されるのが怖い。
「表・裏・表・裏」というリズムを奪われ、ひたすら表だけを見て編み進む。表裏のない世界は怖い。裏がないのは何て恐ろしいのか。
表だけを編んでいると表情が消える。本を読みながら編むと本が味気なくなる。よそ見をする余力を奪われるみたいだった。
輪編みには「編み始め」「編み終わり」がなく、区切りがない。平編みには二段ごとに初期化のチャンスがあり、小さくクールダウンできる。でも輪編みはそれがないので、気がつくと煙が出ていて何かが焼き切れている。
区切りがないのでどこまでもぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
目的に巻きとられ、あてどない気持ちでぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。
「ぐるぐるぐるぐるぐる」という円滑な気分ではなくて、最後に「ぐ」が残る。
平編みなら二段1セットで完結する何かが、輪編みだとずっと持ち越しになる。その不安が端数の「ぐ」になって残りつづけるみたいで、だから私は輪編みで編むといつも以上に追い立てられている気分になる。
たぶん、輪編みで編まれたものはすべて筒であり、管であり、自分も筒であり管だというところがいけないんだろう。人体は筒や管の集合体だ。そして、追い立てられて筒や管をずーーーっと編みつづけてくことは、奈落に通ずる。
終わりのないトンネルを編み下げていく。
編み掘る。
編み埋もれる……。
一度、輪編みでワンピースを作ってしまったことがある。アザラシでも怖かったのに何をやっているのか。あれはセイウチだったかもしれない。重い糸で獰猛性があり、編み進んでくると、手元で編み地を回すのも辛いほどになった。
そしてどこで止めていいのかわからなかった。予定では膝丈ぐらいで止めるつもりだったがもっと長くなり、加速度がついた(表だけ見て編むのは確かに効率がいい)。自分の体、どこまでいくんだろう。怖くなってきて無理やりくるぶしぐらいの丈で止めたが、実際に着てみると糸の重みで伸びるので、足首まで来てしまう。大げさすぎる服になってしまい、一度も着ていない。糸代が相当にかかったのに。
いつ止めていいかわからないというのは「今が楽しい」ということでもあるが、輪編みのストップできない感じは恐怖に近かった。糸があるかぎり編みつづけてしまいそうだった。糸は大量にあって私を圧迫した。ほぼ無限の時間にストップをかける決定権が自分にあるのは恐ろしい。
願わくば時間はいつか終わってほしい、一人に与えられた時間はやがて終わってほしい、どこで時間を止めるか、そんな采配を私に任せないでほしい。私に力を与えないでください。そう思いながらぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐ。奈落だった。奈落は色とりどりでやわらかく、あたたかい、けれども針のかけらが混じっている。
たぶん私が輪編みを苦手とするのは、編み込みをほとんどやらないからだろう。編み込みの好きな人なら、表だけを見て編むのは楽しくてとてもいいだろう。編み込みの靴下なんか特にいい。そして靴下なら、最後にキュッと引き絞って筒を筒でなくすることができる。
それにしても、首から編み出すセーターを二、三枚編んであれはやばいと知っていたのに、どうしてワンピースまで輪で編みはじめたのか。知っている地獄を「これ知ってるから」という理由だけで選択してしまうことが人間にはある。
そして輪編みと平編みのどっちがえら呼吸で肺呼吸なのかはまだわからない。わかっているのは、それが呼吸だということだ。編んでいるときは呼吸している。楽な呼吸か苦しい呼吸かは別として。